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Colouring


「僕はかねてから音楽の中で自分の人生を正直に語るよりも、シナリオを作る側にいた」と、ジャック・ケンワーシーはベラ・ユニオンから発売されるセカンド・アルバム『Love To You, Mate』について語る。「自分の物語じゃないから、怖くなくなった。それは本来、共有すべきものなんだから」


ノッティンガムを拠点に活動するソングライター兼プロデューサーの人生は、デビュー・アルバム『Wake』のリリースを数ヵ月後に控えた2021年2月、義理の弟グレッグ・ベイカーがステージ4のガンと診断されたことで一変した。その後の人生は、一人の青年の人生を分断させることに執念を燃やしているように思えた。彼は、結婚したパートナー、ヘレンを支える柱になる必要があると特に自覚していたが、逆境に直面した家族が共に歩む道のりは、残酷でありながら美しいものであった。


「もちろん、私たちはとても怖かった」とケンワーシーは、アルバムのタイトル・トラックに刻まれた、病院で過ごした次のクリスマスについて回想している。「それでも、彼らはとても前向きで、優しくて、感動的な人々で、すべてを投げつけられて、信じられないような一体感と精神でそれに対処していた。私たちは皆、彼が私たちの人生にいてくれたことにとても感謝している」


Colouringは『Wake』以来ソロ・プロジェクトとして活動しており、このアルバムは00年代のポスト・ブリットポップの大御所たち(初期のコールドプレイ、エルボー)と並んでブルーナイルの影響を受けつつ、レディオヘッドやジェイムス・ブレイクからエレクトロニックとリズムのヒントを得ている。もともとはゴールドスミス在学中に4人の友人で結成されたバンドだったが、2019年に自然消滅した。バンドは2017年にEPをリリースした際に、ダーティーヒットの看板アーティスト、The 1975、ジャパニーズハウスとライブで共演した。特にこのとき、ケンワーシーはThe 1975のことを褒め讃え、学ぶべき点があったと語った。


2020年初頭、ケンワーシーの長年のコラボレーターであるジャンルカ・ブチェラーティ(アーロ・パークス)が、彼がプロジェクトを畳むという考えを一笑に付したおかげで踏ん切りがつき、ケンワーシーは普段しているように、栄養補給と逃避の手段として強迫的に作曲にのめりこむようになった。


グレッグが病気で倒れた頃、ジャックは「新しい音のパレット」を作っていた。「ただ書きたいことを書けばいい、何でも好きに言えばいい。問題が有れば後で歌詞を変えればいいんだから。その1年間、家族からのあるフレーズが彼の頭の中にこびりつくことになる。"どうしてこんなにリアルになったの?"とヘレンに言われたこともあった。「そして何かを書いているうちに、結果的にそういった感じの曲になってしまった」  激動の時代についてアルバムを作ろうという「本当の意図はなかった」ものの、「なんとなくそうなった」のだとか。



『Love To You,Mate』- Bella Union


Colouringこと、ジャック・ケンワーシーは元々は同名のバンドで活動していたが、2019年を境にソロ活動に転じている。彼はボン・イヴェールの次世代のポピュラーシンガーで、同時にエド・シーランのようなクリアなイメージを持つ歌唱力を持つ。彼が音楽的な影響に挙げるのは、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェルといった古典的なポピュラー、フォークシンガー。それに加えて、イヴェールのような編集的なプロダクションについては、エラード・ネグロとも共通項が見いだせる。ただケンワーシーの主要なソングライティングは、Jamie xxのようなエレクトロニックの影響下にあると思うが、それほど癖はない。つまり、カラーリングの曲は、どこまでも素直で、シーランのようであるのはもちろん、ルーシー・ブルーのような聞きやすさがある。

 

ケンワーシーは義理の弟の病の体験をもとにして、みずからの家庭の妻ヘレンとの関係、そしてそれらがどのような家族の関係を築き上げるのかを体験し、そこから逃げたりすることはなかった。誰かに押し付ける事もできたかもしれない。自分とは無関係と責任を放棄することもできただろう。それでも、結局、かれは、人間の生命の本質がどのように変わっていくのか、その核心に触れたことにより、実際にアウトプットされる音楽にも深みがもたらされた。がんになると、人間は驚くほど、その風貌が一変してしまうものだ。そして一般的に、その様子を見ると、自らの中のその人物の記憶がそもそも誤謬であったのではないかとすら思うこともある。


つまり、それは記憶の中にいる人物がだんだんと消し去られていくことを意味する。がんになった親戚がどのように元気だった頃に比べ、見る影もないほど窶れていく様子を見たことがあったけれど、それは悲しいことであるのと同時に、人間の生命の本質に迫るものである。つまり、どのような生命も永遠であるものはなく、必ずどこかで衰退がやってくるということなのだろう。それは生命だけにとどまらない、万物には、栄枯盛衰があり、栄えたものはどこかで衰える運命にある。世界には、不老不死や若返りを望む人々は多い。それは、有史以来、秦の始皇帝も望んでいたことだ。けれども、言ってみれば、それは生きることの本質から目を背けることである。そこで、人は気づく時が来る。どのような命も永遠ではないということ思うのだ。


カラーリングのアルバムは、しかし、そういった複雑な音楽的な背景があるのは事実なのに、そういった悲哀や憂鬱さを感じさせないのは驚異的である。もっと言えば、エド・シーランの曲のように、感情表現が純粋であり、淀みや濁りがほとんどない。アルバムの全体を通して、リスナーはカラーリングの音楽がさっぱりしていて、執着もなく、後腐れもないことを発見するはずだ。崇高とまでは言えまいが、ケンワーシーが現実とは異なる領域にある神々しさに触れられた要因は、彼が音楽を心から愛していること、それを単なる商業的なプロダクションとみなしていないこと、そして、2017年頃に彼自身が言った通り、「普遍的な愛がどこかにある」ということを信じて、それを探し求めたということである。ベラ・ユニオンのプレスリリースに書かれている通り、彼は音楽というもう一つの現実を持っていた。そして、ジャックはそれをみずからの音楽的な蓄積により、素晴らしいポピュラー・プロダクションを作り上げたのだ。

 

推測するに、ここ数年のジャック・ケンワーシーの私生活は、何らかの家族という関係に絡め取られていたものと思われる。それはときに、苦悩をもたらし、停滞を起こし、そして時には、耐えがたいほどのカオスを出来させたはずである。しかし、とくに素晴らしいと思うのは、彼はそれらのことを悔やんだり、恨みつらみで返すわけではなく、ひとつのプロセスとし、その出来事を体験し、咀嚼し、それらを最終的にクリアなポピュラー音楽として昇華させる。


アルバムの全体を聴くと分かるとおり、『Love To You, Mate』は最初から最後までひとつの直線が通っている。停滞もなければ、大きな目眩ましのような仕掛けもない。数年の出来事と経験をケンワーシーは噛み締め、どこまでも純粋なポピュラー音楽として歌おうとしている。彼の普遍的な愛の解釈に誤謬は存在しない。それは誰にでもあり、どこにでも存在する。つけくわえておくと、愛とは、偏愛とはまったく異なる。それは誰にでも注がれているものなのである。

 

結局のところ、そのすべてがアーティスト自身の言葉によって語られずとも、音楽そのものがその制作者の人生を反映していることがある。このアルバムからなんとなく伝わってきたのは、彼は学んだ本当の愛ーーそれは苦さや切なさを伴うーーを誰かと共有したかったのではないだろうか。そして、それはひとつの潜在的なストーリー、もうひとつのリアリティーとして続く。

 

「For You」はその序章であり、オープニングである。このアルバムの音楽は基本的にヒップホップのブレイクビーツを背景に、シーランを思わせるジャック・ケンワーシーの軽やかなボーカルが披露される。さらに、彼のボーカルに深みを与えているのが、ジェイムス・ブレイクのような最初期のネオソウルを介したポップスのアプローチである。オープナーは、驚くほど軽快に過ぎ去っていく。ピアノとギターのスニペットを導入することで、 深みをもたらすが、それは冗長さとか複雑さとは無縁である。どこまでもさっぱりとした簡潔なサウンドが貫かれる。

 

「I Don' t Want You To See You Like That」は ブレイクビーツやサンプリングを元にしたドラムのシャッフル・ビートを展開させる。オープナーと同じように、ジェイムス・ブレイクの影響下にあるネオソウル調のポップが続く。編集的なプロダクションはボン・イヴェールに近いものを感じるが、一方で、きちんとサビを用意し、シーランのようなアンセミックな展開を設けている。繊細なブリッジはピアノのアレンジやしなるドラム、北欧のエレクトロニカを思わせる叙情的なシンセにより美麗なイメージが引き上げられる。大げさなサビのパートを設けるのではなく、曲の始まりから終わりまで、なだらかな感情がゆったりと流れていくような感覚がある。

 

アルバムに内在するストーリーは、純粋なその時々の制作者のシンプルな反応が示されている。「How 'd It Get So Real」では戸惑いの感覚が織り交ぜられているが、しかし、その中でジャックは戸惑いながらも前に進む。冒頭の2曲と同じように、ブレイクビーツのビートを交えながら、なぜ、このようなことが起こったのか、というようなケンワーシーの戸惑いの声が聞こえて来そうである。それらが暗鬱になったり落胆したりしないのは、彼が未来に進もうとしているから。つまり、その瞬間、それはすべて背後に過ぎ去ったものとなる。この曲でも、サビの旋律の跳ね上がりの瞬間、言い知れないカタルシスを得ることが出来る。そして曲の中盤では、すでにそれらは彼の背後に過ぎ去ったものになる。そのとき、現実の中にある戸惑いや苦悩を乗り越えたことに気づく。そして、アウトロではやはり、ケンワーシーのコーラスとともに、ピアノの清涼感のあるフレーズが加わると、最初のイメージが一変していることに気づく。

 

 ポスト・ブリット・ポップの影響は続く「Lune」に反映されている。ここではコールドプレイを思わせる清涼感のある旋律に、ボン・イヴェールの編集的なプロデュースの手法を加え、モダンなUKポップスの理想像を描こうとする。シンガーの高音部のファルセットに近いメロディーが示された時、奇妙なカタルシスが得られる。続いて、ピアノのきらびやかなアレンジが夢想的な感覚を段階的に引き上げる。これらの独創的な高揚感は、フェードアウトに直結している。最近、意外とフェードアウトを用いるケースが少ないが、曲がまとまりづらくなったときのため、このプロデュースの手法を頭の片隅に置いておくべきかもしれない。実際、フェードアウトは感覚的な余韻を残させる効果があり、この曲では、その効果が最大限に発揮されている。 

 

 「Lune」

 

 

ジャック・ケンワーシーは、ジェイムス・ブレイク、トム・ヨークに近い作曲も行う。イギリスらしいアーティストと言えるが、彼はもうひとつの音楽的な引き出しを持っている。それがアイスランドのポップスで、続く「A Wish」ではアコースティックピアノを中心として、ポスト・クラシカル/モダン・コンテンポラリーの影響下にあるポピュラーミュージックを展開させる。


ピアノの演奏についてはニューヨークでモデルをした後に音楽家に転向したEydis Evensen(アイディス・イーヴェンセン)と、Asgeir(アウスゲイル)の中間にあるようなアプローチである。氷の結晶のように澄んだピアノに加え、ネオソウルの影響下にあるボーカルが清涼感を生み出す。


複雑な展開を避け、メロを1つのブリッジとしてすぐにサビに移行する。サビが終わると、イントロの静かなモチーフへと舞い戻る。最近、曲の構成が複雑化していることが多いが、音楽のシンプルさが重要であるのかをこの曲は教えてくれる。サビの段階では、エド・シーランに近い印象を覚えるが、ジャック・ケンワーシーの歌唱には驚くほど深みがある。それらを支えるのが祝福的な金管楽器のレガート、そして、ディレイを加えた編集的なプロダクションである。

 

素晴らしい曲が2曲続く。「This Light」は、エレクトロニックサウンドを基調としたポップで、ケンワーシーのボーカルはスポークンワードに近いボーカルを披露する。表向きの声にはゴールデン・ドレッグスのベンジャミン・ウッズのような人生の苦味を反映させた枯れた感じの渋さがあるが、サビでは、やはり祝福されたような高らかな感覚が生み出される。しかし、ある種、高揚感に近いテンションは、喧噪や狂乱には陥らず、すぐに静謐で落ち着いた展開へと戻る。ここにソングライターとしての円熟味、人間としての成長ともいうべき瞬間を見いだせる。最も理想的な音楽とは、狂乱を第一義に置くべきではなく、常に地に足がついた表現であるべきだ。そして、歌手の心のウェイヴを表現するように、ジャックのボーカルのメロディーの周りをシンセのアルペジエーターが取り巻き、彼のリードボーカルの感情性を高めていく。

 

タイトル曲「Love To You, Mate」は、ケンワーシーが古典的なポピュラー・バラードに挑戦したナンバーである。このトラックは、とくに義弟の病と家族の関係について書かれているようだが、それは先週のアイドルズの『Tangk』と同じように愛について歌ったもの。しかし、そのアプローチは対極にある。ジャックは一年の思い出、そして次のクリスマスへの思いをほろ苦い感覚を交え、回想するように歌う。しかし、彼は、それがどのようにほろ苦く、切なく、胸を掻きむしるようなものであろうとも、最終的には、それをシンプルな愛情で包み込もうとする。かつて、キース・ジャレットが『I Love You, Porgy』で、献身的に看病してくれた最愛の妻に対し、最大の感謝をジャズ・ピアノで示したように、ケンワーシーはポップ・バラードという形でそれらの思いに報いようとしている。その明るい気持ちが聞き手に温かい感情をもたらす。

 

「Coda」は、クラシック音楽の用語で「作曲家が最後に言い残したことを補足的に伝える」という意味がある。「A Wish」と同じように、アイスランドのポスト・クラシカルに根ざした流麗なピアノ曲のアルペジオを通して、ジャック・ケンワーシーは過去にある家族との思い出に美しい花を添える。花を添えるとは惜別であり、彼の一年間やそれ以上の期間との思い出に対する別れを意味する。この曲では簡潔でスムーズな展開を通して、歌手としての真骨頂が立ち現れる。とくに、ジャックのファルセットによる歌声は、ボーイ・ソプラノのようなクリアな領域に達する。この瞬間に真善美というべきなのか、最も美しい瞬間が訪れる。それは息を飲むような緊迫感を覚えるのと同時に、程よい力の抜けたようなリラックスした感覚が溢れ出す。


アンビエント風の実験的なインストゥルメンタル「small miracles」を挟んで、続く「For Life」では再び軽快なポップに還っていく。この曲では、アルバムの序盤と同様に、トラックにブレイクビーツの処理が施されているが、ケンワーシーのボーカルの性質はジェイムス・ブレイクというより、「KID A」の時代のトム・ヨークの影響下にある。独特なトーンを揺らすような歌唱法は、現代的なベッドルームポップ/インディーポップのアプローチと結びついて、ドイツの同ジャンルのアーティスト、クリス・ジェームスの主要曲のような軽やかさと疾走感をもたらす。


同じように、「Big Boots」の軽快なインディーポップソングで、アルバムは終わる。しかし、聞き終えた後、驚くほど後味が残らず、清々しい感じがある。それはまさしく、ジャック・ケンワーシーが過去の人生の苦みを噛み締めた上で、明るい未来に向けて進み始めている証拠である。

 

 

92/100

 

 

 「Coda」

 

先週のWEFは以下よりお読みください:

Royel Otis




 『Sofa Kings EP』で大成功を収めたロイエル・オーティスがデビュー・アルバム『Pratts & Pain』を本日リリースする。グラミー賞受賞者のダン・キャリー(Foals, Wet Leg)がプロデュースした本作は、サウス・ロンドンのプラッツ&ペイン・パブという居心地の良い場所で丹念に制作された。デュオは、歌詞を完成させ、アルバムの方向性を前進させるために、頻繁にそこに避難した。


 『プラッツ&ペイン』は、信頼と仲間意識によって育まれたロイエル・オーティスの音楽的進化の証である。音楽的には、このアルバムはインディーとサイケデリアをシームレスに融合させ、ファンを魅惑的な旅へと誘い、自発性を謳歌している。


 ロイエル・オーティスは、その核となる2人の絆に揺るぎはない。ロイエルが言うように、「私たちは互いの仲間や創造的相乗効果に喜びを感じている」という。「オーティスの直感と行動を信じることは第二の天性であり、私はそれを心から応援している。互いに支え合うことで、偉大さが生まれる」


 プロデューサーのダン・キャリーの有名なホーム・スタジオの角を曲がったところにあるサウス・ロンドンのパブ、「プラッツ&ペイン」は、ロイエル・オーティスの歴史において重要な位置を占めている。


 2023年初頭にキャリーとデビュー・アルバムを制作する際、幼なじみのオーティス・パヴロヴィッチとロイエル・マデルというオーストラリア出身のデュオは、歌詞を完成させ、最初のLPの方向性を決めるためにパブに出かけた。


「ダンがヴォーカルを録音してくれと頼むと、"30分だけ待ってくれ、プラッツ&ペインに行くから "と言って、パブで一杯やって、ショットを数杯飲んで、歌詞を書き上げたんだ」とロイエルは回想している。


 やがて、それが二人の間でちょっとした評判となり、彼らはこのレコードに『PRATTS & PAIN』というタイトルを名付けることになった。デビューアルバム全体を通して、ロイエル・オーティスはメロディアスでポップなインディーとウージーなサイケの間を揺れ動くが、ひとつのレーンに縛られている感じはほとんどない。ひとつのスタイルやムードが飽きられるとすぐに、サイケデリックな怪しさや不協和音のノイズへとハンドブレーキがかかり、聴く者を飽きさせることがない。2枚のEPの発表を経て、『PRATTS & PAIN』ではバンドの歴史のすべてが1枚のアルバムに集約されている。


 ロイエル・オーティスの曲を作るためのオープンな方程式は、『PRATTS & PAIN』にすべて書かれている。「Velvet」と「Big Ciggie」では、キャリーの11歳になる甥のアーチーがドラムで参加している。最初のシングル「Adored」では、完璧なインディー・ポップ・ヒットを完成させ、「Sonic Blue」では、この根底にあるエネルギーを保ち、鋭いラウド性に彩られたギターをトップに据えている。


 一方、「Velvet」はトーキング・ヘッズのユニークなエネルギーを持ち、「Molly」は不穏で深い雰囲気のスロー・ジャム。しかし、音楽がどのようなサウンド・テンプレートに基づいているにせよ、ロイエル・オーティスの核心は、相互信頼という基礎となるDNAに戻ってくる。ロイエルは言う。「一緒にいて楽しいし、難しいことはない。私はオーティスの考えを信頼している。



Royel Otis 『Pratts & Pain』 /  OWNESS PTY LTD



 ロイエル・オーティスは2019年にシドニーで結成された若手バンドであるが、すでに、ロンドンとマンチェスターのメディアを中心に注目を受けている。

 

 もちろん、オーストラリアという土地が英国人の移民が多いことを鑑みると、イギリスのリスナーがロイエル・オーティスの音楽にちょっとした親近感を見出すのは当然なのではないだろうか。そして彼らがロンドンでレコーディングし、そして同地のパブの名をタイトルに冠することについてもである。現在は夏のオーストラリアのミュージックシーンの盛り上がりを象徴づけるようなデュオであり、南半球にいる彼らが音楽を提供することは北半球に住む人にとって、春の雪解けを見届けるようなものである。

 

 さて、シドニーのデュオ、ロイエル・オーティスは3枚のEPを発表した後、『Sofa Kings』をリリースし、着々とファンベースを拡大させてきた。とりわけ、全般的な彼らの音楽の評価を高め、そして、ダン・キャリーをプロデューサーに起用するに至った経緯として「Murder on the Dance Floor」がある。このライブセッションは、ロイエル・オーティスがウェット・レッグに近い存在と見なされる要因となった。この曲のおかげでロイエル・オーティスがどれほどクールなバンドなのか、その評判が広まったのだ。 

 

 

 

 

 当時のファンの反応は「かなりクレイジーだった」とロイエル・オーティスはauducyの取材に対して次のように述べている。「私達はそれを始める前に一日リハーサルおこないました」とパブロヴィッチ。「ライブセッションを終えるのに一時間ありましたが、まあ、それが起こるということです」とマデルは付け加えた。

 

「私達はアイディアを検討していて、かなりストレスを感じていた」バンドの最初のアルバムのタイトル曲は、彼らの知名度を上昇させる要因となり、最初のヒットシングルになった。そして、このヒットシングルがどのように生まれたのかを解き明かした。


 ロイエル・オーティスはDMA'sと親しい関係にあるというが、そもそも「友達を利用しようと思った」と言い、「彼らにぴったりな曲を書いてみようと思った」と話している。このことはデュオがコミュニティ性を重視し、自分達の感覚をリアルな音楽としてアウトプットすることを証し立てる。もうひとつ、彼らの音楽を語る上で、日本の映画と漫画の影響があることも付け加えておきたい。ジブリ映画、「AKIRA」といった作品は彼らの音楽にSFと幻想的な要素をもたらしている。他にも韓国のポップカルチャーにも、ロイエル・オーティスの二人はちょっとした親しみを感じているという。

 

 ロイエル・オーティスの『Pratts & Pain』のサウンドは、ダンキャリーがプロデュースを手掛けたということもあってか、Wet Leg(ウェット・レッグ)のオルトポップとSF的な雰囲気を持つ未来志向のポスト・パンクのクロスオーバーに近い。しかし、そこにレコーディングの場所もあいまってか、英国的な匂いのするアルバムである。そして、実際にデュオがサイケ、ローファイ、ポスト・パンク、ネオソウル、プロトパンクという複数の影響を内包させながら、英国のフットボール・スタジアムで聞かれるようなチャントのコーラスを意識していることがわかる。アルバムの冒頭「Adored」は、Nilfur Yanyaの『Pailnless』に収録されていた「stabilise」の影響下にあり、ドライブ感とフックのあるポスト・パンクをよりスタイリッシュに洗練させている。

 

 また、ロイエル・オーティスは、ディスコサウンドとジャミロクワイからの影響を公言しているが、「Fried Rice」は、ダンサンブルなポスト・パンクをイギリス的なテンションで包み込んだかのような痛快なトラックだ。ワイト島のデュオのように脱力感のあるポップセンスと曲の運び方は同様であるのだが、そこにフットボールチームのチャントのようなテンションを付加しているのがかなり新鮮である。タイトルを「Fish & Chips」にしなかったのが惜しいが、少なくともロンドンのパブでギネスかペールエールのパイントを飲み、プレミアリーグの試合を観戦する時のような、熱狂と無気力さと陽気さの中間にある奇妙なワクワクした感覚がこの曲にはわだかまっている。

 

 サイケロック・サウンドからの影響はファンクの要素と合わさり、セッションの内的な熱狂性がパッケージされている。しなるようなギターのカッティングは70、80年代のミラーボールディスコやディスコファンクの要素と融合し、ノースロンドンのGirl Rayを思わせるダンサンブルなナンバーに昇華している。ただインディーポップの要素が強いガール・レイとは対象的にロイエル・オーティスのサウンドはギター・ポップやLAのローファイやサイケロックに傾倒している。それは例えば、Miami Horror(マイアミ・ホラー)のようなスタイリッシュなディスコサウンドという形で展開される。これはまさにウェスト・コーストサウンドの現代版として楽しめるかもしれない。

 

 ロイエル・オーティスのプロトパンクからの影響、Sonic Youthの変則チューニングのギターサウンドの影響は「Sonic Blue」に見いだせる。『Bad Moon Rising』の頃のニューヨークのアヴァン・ロック/プロトパンクを一般的に聞きやすく親しみやすく昇華させ、ドライブ感のあるポストパンクによって展開させる。


 このアプローチは、IDLESと大きな違いはないと思うが、シンセのマテリアルのキラキラした輝き、ボーカルの鮮烈な印象は「TANGK」に匹敵する。全体的にはロサンゼルスの双子のデュオ、The Gardenのような勢いに任せたような適当さと荒削りさがあるが、適度に力の抜けたサウンドはスカッとしたカタルシスをもたらす瞬間がある。疾走感のあるポスト・パンクは炭酸ソーダを飲み終えたときのような清々しい感じに満ちている。

 

 ロイエル・オーティスのサウンドは、その後も変幻自在に基底とする音楽性を少しずつ変化させていき、「Heading For The Door」では、ネオソウルの影響を絡めたインディーポップで聞き手にエンターテイメント性をもたらし、続いて「Velvet」では、70年代のウェストコーストロックをプレミアリーグのチャントのように変化させる。

 

 これらのサウンドがそれほど安っぽくならないのは、彼らがブルース・ロックを何らかの形で間接的に聴いているから。そしてそのイメージからは想像できないような渋さは、ローリング・ストーンズのようなホンキートンクに近くなり、最終的にはSham 69のフットボールのチャントを基調とするUKのオリジナルパンクの源流に至る。言うまでもなく、ライブステージではシンガロングを誘発するはず。これらのサウンドには現在のロンドンのバンドよりもイギリス的な本質が流れているかもしれない。それはもしかすると、デュオの隠れたイギリス的なルーツに迫っているとも言える。 

 

 

「Velvet」

 


 

 6曲目までを前半部とすると、アルバムの後半では、ややこれらの変幻自在なサウンドに変化が見える。

 

 いうなれば、パイントのギネスをしばらくテーブルの上に置いておいた時のような渋い味わいに変わる。「IHYSM」は勢いのあるポストパンクで鮮烈さを感じさせ、「Molly」でもBar Italia(バー・イタリア)の三人が好むようなダウナーなスロウバーナーとして楽しめる。「Daisy Chain」ではウェット・レッグのようなアンセミックなインディーポップとニューウェイブの合間を探り、Indigo De Souzaのデビュー当時の鮮烈さを思わせる。

 

 それらのダサさとかっこよさの絶妙なバランス感覚を持ち、アルバムのその後の収録曲をリードし続けている。ただ本来、ロックやパンクはそういったアンビバレントな感覚を探るものでもあるからそれほど悪いことではない。そのあと、ギリギリの綱渡りのようなスリリングな感覚で曲が進んでいき、「Sofa King」ではダンサンブルなビートに彩られたサイケデリック・ロック、「Glory to Glory」では、The ClashのようなUKのオリジナルパンクをインディーポップから再解釈している。曲のサビの部分にはフックがあり、これらのアンセミックな展開はライブでその真価を発揮しそう。

 

 このアルバムの最も興味深い点は、終盤になればなるほど音楽的な年代が遡っていくような感覚を覚えること。


「Always Always」ではBeach Fossilsがデビュー時に試みたビンテージロックの再現性を再考する。クローズ曲では、ロンドンのHorseyのロックとミュージカルを融合したようなシアトリカルなサウンドで終わる。 そしてまだ何か残っているという気がする。

 

 正直なところ、ロイエル・オーティスの二人が作り出すサウンドは、取り立てて圧倒的なオリジナリティーがあるというわけではないけれど、アルバムの収録曲の随所から、二人の才覚の煌めきと、押さえつけがたいようなポテンシャルも感じ取れる。それはおそらく両者の信頼関係からもたらされるものなのだろうか。しかし、まだ、このアルバムで彼らのポテンシャルの全てを推し量ることは難しいかもしれません。ただ、今週のアルバムの中では、一番真新しさと楽しさがある素敵なサウンドでした。

 

 


85/100




Royel Otis 『Pratts & Pain』はロイエル・オーティスの自主レーベル、OWNESS PTY LTDから発売中。ストリーミング/ご購入はこちら

 


 

Weekend Featured Track「Sonic Blue」





先週のWEFは以下よりお読みください:

Weekly Music Feature

 

‐The Telescopes


 

  イギリスのバンド、ザ・テレスコープスは1987年から活動している。バンドのラインナップは常に流動的で、レコーディングに参加するミュージシャンは1人だったり20人だったりする。この宇宙で不変なのは、ノーサンブリア生まれのバンド創設者で作曲家のスティーヴン・ローリーだ。


当初はチェリー・レコードと契約していたが、後にホワット・ゴーズ・オン・レコードに移籍し、インディ・チャートの上位に常連となった。ザ・テレスコープスの音楽には堅苦しい境界線はなく、様々なジャンルを網羅し、常にスティーブン・ローリーのインスピレーションに導かれながら独自の道を歩んでいる。


スティーヴン・ローリーが、13th Floor Elevators、The Velvet Underground、Suicideといったアメリカのアンダーグラウンド・アイコンへの愛情を注ぎ込む手段として1987年に結成して以来、バンドはノイズ、シューゲイザー、ブリットポップ、スペース・ロックの世界に身を置きながら、そのどれにも深入りすることなく活動してきた。むしろローリーは、それらすべてをつなぎ合わせて、完全にユニークなドリームコートのようなものを作り上げることを好んできた。


1992年にクリエイション・レコードからリリースされた彼らの名を冠した2枚目のLPは、その年にパルプやシャーラタンズが発表したレコードよりも、ブリットポップへの強力なサルボである。


10年の歳月をかけて制作された続編『サード・ウェイブ』では、ローリーはジャズとIDMに没頭し、Radioheadの「KID A」の後の世界におけるロック・バンドというフォーマットの無限の可能性を示すにふさわしい作品を作り上げた。


約10年前から、テレスコープスは、Tapete Recordsという新しい国際的なレーベル・パートナーを得ている。2021年にリリースされた前作『Songs Of Love And Revolution』は再びUKインディ・チャートにランクインし、ボーナス・エディションにはアントン・ニューコム、ロイド・コール、サード・アイ・ファウンデーションがリミックスを提供した。楽曲は時の試練に耐え、聴くたびに新しい発見がある。かつてイギリスの新聞は、ザ・テレスコープスを「舗道というより精神の革命」と書いた。この共通項は、30年以上に及ぶ影響力のある作品群を貫いている。ザ・テレスコープスは、世界中の様々なジャンルのアーティストに影響を与えている。


「Growing Eyes Becoming String」は、イギリスのノイズ・ロックのパイオニア、ザ・テレスコープスの16枚目のスタジオ・アルバムである。


元々は2013年に2回のセッションでレコーディングされ、1回目は厳しいベルリンの冬にブライアン・ジョネスタウン・マサカーのスタジオでファビアン・ルセーレと、2回目はリーズでテレスコープス初期のプロデューサー、リチャード・フォームビーと行われた。10年近く前、ハードドライブのクラッシュに見舞われたこのセッションは、失われたものと思われ、すぐに忘れ去られてしまった。デジタル・エーテルから奇跡的に救出され、結成メンバーのスティーヴン・ロウリーがパンデミックの中、自身のスタジオで仕上げたこのアルバムは、2024年2月にFuzz Clubからリリースされることが決定、2013年当時のザ・テレスコープスの別の一面が明らかになった。


当時の彼らのフィジカル・アウトプットのほとんどが実験的なノイズ・インプロヴィゼーションで構成されていた。それらが明らかな構造とはかけ離れたものであったのに対し、『Growing Eyes Becoming String』は、ロンドンの実験的ユニット、ワン・ユニーク・シグナルがバックを務めるザ・テレスコープスが、並行する存在として、より歌に基づいた音楽を実際に生み出したことを示している。アルバムに収録される全7曲には、長年のファンがザ・テレスコープスの音楽から連想するクオリティのトレードマークがすべて詰まっている。ソリッドなボーカル、メロディ、ハーモニー、ノイズ、不協和音、即興、実験、そして自然の視覚の領域を超えた旅。


「この2つのセッションの目的は、ブラインドで臨み、完全にその場にいることだった」とスティーヴン・ローリーは振り返っている。「先入観なんかは一切なくて、すべてが "W "だったのさ」



『Growing Eyes Becoming String』- Fuzz Club



  当初、イギリスのロックバンド、The Telescopes(テレスコープス)の音楽活動は1980年代に席巻したブリット・ポップの前夜の時代のミュージック・シーンに対する反応という形で始まった。フロントパーソンのスティーヴン・ローリーには才能があったが、まだ一般的に認められる時代ではなかった。「10代の頃に起こった悪いことや、80年代のチャートを支配した酷い音楽等に触発された。テレスコープスは、まわりのほとんどのものに対する反応だった」 

 

 その当時から、テレスコープスは流動的にメンバーを入れ替えて来た。最初のリリースの前にも、ラインナップ変更があった。しかし、それらは偶然の産物であり、意図的なものではなかった。状況によってメンバーを入れ替えたにすぎないという。80年代から、スティーヴン・ローリーが触発を受けた音楽は、「周りの暗闇を受け入れながら、光の中で創造されたもの」ばかりだった。 ニューヨークのプロトパンク/ローファイの始祖、The Velvet Undergroundは言うに及ばず、サイケデリック・ロックの先駆者、The 13th Elevators、アラン・ヴェガを擁する伝説的なノイズロック・バンド、Suicideなど、スティーヴン・ローリーの頭の中には、いつもカルト的だが、最も魅力的なアンダーグラウンドのバンドの音楽が存在した。

 

  もうひとつ、ローリーに薫陶を与えたのが、イギリス国内のダンスミュージックだった。「私達は、バーミンガムやノッティンガムで遊び始め、当時流行っていたファンジンの文化を通して、言葉が広まっていった。私達の最初のロンドンでのショーは誰もいなかった。ケンティッシュタウンのブル&ゲートでハイプをプレイした時、観客は20人しかいなかった。その当時、カムデンのファルコンでは、多くのノイズバンドが最初のギグを行っていた。”パーフェクトニードル”を発表したときには、ファルコンでのショーはいつも満員となり、凄まじい熱気だった」

 

  正確に言えば、バンドはその後、MBVなどを輩出した''Creation''と契約を結び、リリースを行った。クリエイションのレーベル創設者、アラン・マッギーが彼らのショーを見に来た時、あまりに強烈すぎて、彼はその場を去らなければならなかった。翌日、彼はそれが良いことであると考え、テレスコープスに連絡を取り、マスターテープとライセンスを寄与するように求めた。ローリーはそれに応じ、クリエイションとの契約に署名する。その後、彼は引っ越し、創造的な側面に夢中になり、スタジオに行く時間を増やした。しかし、ショーではバイオレンスがあった。唾を吐きかけられたり、ボトルを投げつけられることに、ローリーは辟易としていた。そんなわけで、インスピレーションに従い、レコードを制作することに彼は専心していた。

 

 

  セカンド・アルバムをリリースした後、ブリット・ポップの全盛期が訪れた。同時にそれはテレスコープスにほろ苦い思い出を与えるどころか、ミュージックシーンから彼らの姿を駆逐することを意味していた。ローリーは燃え尽き症候群となり、しばらく無期限の活動休止を余儀なくされることになった。それから何年が流れたのか、音楽はどのように変わっていったのか。それを定義づけることは難しい。少なくとも、ローリーはガラスの散らばっているような部屋で暮らし、財政的には恵まれなかったが、少なくとも、音楽的な熟成と作曲の才覚の醸成という幸運を与えた。ローリーは、誰も彼のことを目に止めない時代も曲を書き続けた。長い時を経て、2015年にドイツのレーベル、Tapete Recordsと契約したことがテレスコープスに再浮上の契機を与えたことは疑いがない。『Stone Tape』を皮切りにして、『Songs Of Love and Revolution』とアルバムを立て続けに発表した。この数年間で、テレスコープスはイギリス国内のインディーズチャートにランクインし、文字通り、30年の歳月を経て、復活を遂げたのだ。

 

  もうすでに、『Growing Eyes Becoming String』はレーベルのレコードの予約は発売日を前にソールドアウト、また、日本のコアなオルタナティヴロックファンの間で話題に上っている。それほど大々的な宣伝を行わないにもかかわらず、このアルバムは、それなりに売れているのだ。音楽を聞くと分かる通り、このアルバムは単なるカルト的なロックでもなければ、もちろんスノビズムかぶれでもない。Velvet Undeground、Stoogesの系譜にあるノイズ、サイケ、ブリット・ポップに対するおどろおどろしい情念、そして、Jesus and Mary Chainのような陶酔的な音楽性が痛烈に交差し、想像だにしないレベルのレコードが完成されたということがわかる。

 

 

   #1「Vanishing Lines」を聞くと分かる通り、テレスコープスのギターロックを基調とした全体的な音楽の枠組みの中には、70年代のサイケデリックロックや、ザ・ポップ・グループのような前衛主義、なおかつ、ニューヨーク/デトロイトのプロトパンクを形成するヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージズ、スイサイド、スワンズといった北米のアンダーグランドのマニアックな音が絡み合い、ミニマルによる構成力を通じて、ラフなセッションが展開される。しかし、エクストリームなノイズは、ごくまれにメリー・チェインズのようなシューゲイズ/ドリーム・ポップの幻影を呼び覚まし、スティーヴン・ローリーのモリソンを彷彿とさせる瞑想的なボーカル、同時に、ドリーム・ポップのゴシック性が噛み合った時、独創的なギターサウンドや、ローファイ、ノイズに根ざした独創的なバンドサウンドが産み落とされる。

 

  本作の冒頭の曲の中には、シャーランタンズやパルプのような主流から一歩引いたブリットポップのグループのメロディー性が受け継がれている。そして、スティーブン・ローリーのボーカルは、最終的にシガレット・アフター・セックスのような夢想的で幻惑的なイメージを呼び覚ます。それは1980年代後半や90年代前半に、彼がブリット・ポップ・ムーブメントを遠巻きに見ていたこと、あるいは、商業的に報われなかったということ、そのことが、この時代の象徴的なミュージシャンやバンドよりもブリット・ポップの核心を突いた音楽を生み出す要因ともなったのである。ローリーの瞑想的なギター、そしてボーカルに引きずられるようにして、ローファイかつアヴァンギャルドなロックが、きわめて心地よく耳に鳴り響くのだ。

 

 「In The Hidden Fields」

 

 

 

  #2「In The Hidden Fields」には、スティーヴン・ローリーがこよなく愛する東海岸のプロトパンクに対するフリーク的な愛着が凝縮されている。The Stoogesの「1969」、「I wanna be your dog」を思わせる、ガレージ・ロック最初期の衝動性、プロトパンクを形成する粗さ、そういったものが渾然一体となり、数奇なロックソングが生み出されている。しかし、テレスコープスは現代のロサンゼルスで盛んなローファイの要素を打ち込み、それをミニマルな構成によりフィードバックノイズを意図的に発生させ、それらを最終的に、サイケデリックな領域に近づける。時代錯誤にも思えるローファイなロックは、驚嘆すべきことに、カルト的な響きの領域に留まらず、ロンドンのBar Italiaのような現代性、そして奇妙な若々しさすら兼ね備えている。

 

  プロトパンクやサイケロックの要素と併行して、この最新アルバムの中核をなしているのが、Melvins、Swansに代表される、ストーナー・ロックとドゥーム・メタルの中間にあるゴシック的なおどろおどろしさである。俗に言われるドゥーム・メタルのおどろおどろしい感じを最初に生み出したのは、Black Sabbathのオズボーンとアイオミであるが、そのサブジャンルとしてドゥーム、ブラック・メタル、スラッジ・メタル等のサブジャンルが生み出された。

 

  テレスコープスは、そういったメタル的なドゥーム性を受け継ぎ、#3「Dead Head Light」において、彼ららしいスタイルで昇華している。Swansの「Cops」を思わせるヘヴィーロックを構成する重要な要素ーー重苦しさ、閉塞感、内向き、暗鬱さ、鈍重さーーこういった感覚が複雑に絡み合い、考えられるかぎりにおいて、最も鈍重なヘヴィーロックが誕生している。フロントマンのローリーは、暗い曲を書くことについて、「今の世の中は暗いのに、どうして明るい曲を書く必要があるの」と発言しているが、それらの世の中にうごめく、おぞましい情念の煙霧は、ノイズという形でこの曲を取り巻き、聞き手をブラインドな世界へといざなっていく。それらの徹底的に不揃いであり、いかがわしく、どこまでも不調和なこの世の中を鋭く反映させたような音楽を牽引するのが、ロールを巧みに取り入れたラフなドラムのプレイである。 

 

 

 「We Carry Along」

 

 

 

  テレスコープスのドリームポップ/シューゲイズの音楽性は、アルバムの中盤の収録曲、#4「We Carry Along」に見いだせる。フィールド録音を取り入れて、バンドは本作のなかで最もシネマティックなサウンドを表現しようとしている。ダウナーなローリーのボーカルと、幻惑的な雰囲気のあるギターロックの兼ね合いは、かつてのヴェルヴェット・アンダーグラウンドのティンパニーを用いたスタイルでリズムが強化され、半音進行の移調により、トーンの微細な揺らめきをもたらす。スティーヴン・ローリーのボーカルは、本作の中で最もグランジ的なポジションを取っているが、それは、Soundgardenのクリス・コーネルのサイケデリックで瞑想的なサウンドに近い。この曲には、オルタナティヴ・メタルの名曲「Black Hole Sun」のような幻惑的な雰囲気が漂う。それらの抽象性は、コーネルが米国南部の砂漠かどこかを車でぼんやりドライブしていたとき、「Black Hole Sun」のサビのフレーズを思いついた、という例の有名なエピソードを甦らせる。「We Carry Along」には、ノイズ・ロックの要素も込められているが、同時にその暗鬱さの中には奇妙な癒やしが存在する。砂漠の蜃気楼の果てに砂上の楼閣が浮かび上がってきそうだ。それはフィールドレコーディングの雷雨の音により、とつぜん遮られる。


  アルバムのハイライトとも言える#5「Get Out of Me」は、彼らの主流のスタイルであるミニマルな構成のローファイ・ロックという形で展開される。小規模でのライブセッションをそのまま録音として収録したかに思えるこの曲は、テレスコープスの代名詞であるローリーのシニカルで冷笑的なボーカル、そして、Swansのように重苦しさすら感じられるスローチューンによって繰り広げられる。シンセのサイケデリックなフレーズ、Melvinsのバズ・オズボーンが好む苛烈なファズがギターロックという枠組みの範疇にあるドローン性を形成し、それらの幻惑的なサイケ・ロックの中にダウナーなボーカルが宙を舞う。最後には、地の底から響くようなうめき、悲鳴にもよく似た断末魔のような叫びを、それらのサイケロックの中に押し込めようとする。


 

  「世の中が暗いのに、なぜ明るいものを作る必要があるのか?」というローリーのソングライティングの方向性は、アルバムの終盤になっても普遍的なものであり、それがテレスコープスの魅力ともなっていることは瞭然である。しかし、どこまでも冷笑的で、シニカルなバンドサウンドが必ずしも冷酷かつ非情であるとも言いがたい。「What Your Love」では、すでに誰かがどこかに速書きのデモソングとして捨てたかもしれないMBVのドイツ時代の音楽性や、スコットランドのPrimal Screamのギターポップ、Mary ChainsやChapterhouseのシューゲイズの源流を成すノイズを交えたドリーム・ポップの音楽性を継承し、それらの音楽を現在の地点に呼び覚ます。


  アルバムの最後には、意味深長なタイトル曲代わりの「There is no shore(海岸はもうない)」が収録されている。テレスコープスは、本作の前半部と中盤部の収録曲と同じように、70年代の西海岸のサイケデリアとニューヨークのプロトパンクを下地にし、一貫して堂々たる覇気に充ちたヘヴィーロックを披露する。そして、ENVYの最高傑作『A Dead Sinking Story』の『Chains Wandering Deeply』を思わせる、ドゥーム・メタルの雰囲気に満ちたダークでダウナーなイントロから、へヴィーなリフとノイズと重なりあうようにして、亡霊的に歌われる「海岸はもうない、もうない……」というローリーのボーカルが、幻惑的な雰囲気を持って心に迫ってくる。この曲には、Borisのようなバンドの前衛音楽の実験性に近いニュアンスも見いだせるが、テレスコープスのスタイルは、どこまでもドゥーム・メタルのようにずしりと重く、暗い。

 

  最後に、それは幻惑という印象を越えて、秘儀的な領域に辿り着く。米国のプロトパンクやドイツのノイズを吸収しているが、秘儀的な音楽としては、どこまでも英国的なバンドである。表面的なイメージとは裏腹に、テレスコープスこそ、Crass、This Heat、Pink Floyd、Black Sabbath、こういった英国のアンダーグランドの系譜に位置づけられる。それは、サバスの「黒い安息日」の概念が生み出した「メタルの末裔」とも言える。アルバムの音楽から汲み取るべきものがあるとすれば、それは究極的に言えば、現代社会の資本主義のピラミッドから逃れられぬ人々がどれほど多いのかという、冷笑的でありつつも核心を捉えたメッセージなのである。

 

 

94/100
 

 

Weekend Featured Track- 「Get Out of Me」

 

 

 

The Telescopesの新作アルバム『Growing Eyes Becoming String』は、Fuzz Clubから本日発売。インポート盤の予約はこちら。LP/CDのバンドル、テストプレッシング等の販売もあり。



先週のWeekly Music Featureは以下より:

Maria W Horn『Panoptipkon』


以下の記事もあわせてお読み下さい:


THE VELVET UNDERGROUND(ヴェルヴェット・アンダーグランド)  NYアンダーグランドシーンの出発点、その軌跡

Maria W. Horn


 マリア・W・ホーン(1989)は、音に内在するスペクトルの特性を探求する作曲家。芸術活動に加え、スウェーデンのレーベル、XKatedralの共同設立者でもある。彼女の作品は、アナログ・シンセサイザーから合唱、弦楽器、パイプオルガン、様々な室内楽形式まで、様々な楽器を用いている。シンセティック・サウンドは、しばしばアコースティック楽器と組み合わされ、音色、チューニング、テクスチャーを正確にコントロールすることで楽器の音色的能力を拡張する。


 マリアは、建物や物体、地理的な地域に内在する記憶を探求するために、スペクトラリストのテクニックとその土地特有の音源を組み合わせている。


 最近の作曲では、物理的な空間から音響的な人工物を用い、作曲のための音楽的枠組みを創り上げている。これらの音響的痕跡を出発点として、マリアは複雑なハーモニック・パターンを織り成し、親密な儚さから灼けるような高密度のオーラル・モノリスへとゆっくりと変化していく。


 デビューアルバム『Kontrapoetik』(2018年)は、歴史的な調査であり、彼女の故郷であるスウェーデン北部のÅngermanlandの欺瞞に満ちた、穏やかな、しかし混乱した過去に取り組む一種の対悪魔祓いである。


 『Dies Irae』(2021年)は、ベルクスラーゲンの鉱山地帯にある空の機械ホールの共鳴周波数に由来し、『Vita Duvans Lament』(2020年)は、スウェーデンで唯一建設されたパノプティック監房の刑務所を音で発掘したものである。


ーー『Panoptikon』は、ルレオにある解体されたVita Duvanというパノプティック刑務所(白い鳩刑務所)でのインスタレーションのために2020年に作曲された。ボーカルとエレクトロニクスのための音楽による音の発掘である。今作は当初、マルチチャンネルのサウンドと光のインスタレーションとして発表され、監獄の独房に設置されたラウドスピーカーから受刑者の想像上の声が送信された。


アルバムのヴォーカルは、サラ・パークマン、サラ・フォルス、ダヴィッド・オーレン、ヴィルヘルム・ブロマンダー。


タイトルの『Omnia citra mortem』は法律用語であり、「死ぬまでのすべて」あるいは「死のこちら側のすべて」と訳せる。この作品では、囚人同士のコール・アンド・レスポンス構造が用いられており、まばらな声の断片から始まり、次第に声の網の目のように広がっていくーー


 

『Panoptipkon』 - XCathedral


 

 「パノプティコン」とは、そもそもフランスの哲学者のミシェル・フーコーが指摘しているように、「中央集権的な監獄のシステム」のことを指す。昨年、イギリスのジェネシスのボーカリスト、ピーター・ガブリエルがこの概念にまつわる曲をリリースしたことをご存知の方も少なくないはず。

 

 「パノプティコン」の定義を要約すると、建築構造の中央に塔のような建物があり、その周囲に官房が張り巡らされ、常に囚人たちがその中央の塔から監視されることを無意識に意識付けられることによって、いつしかその人々は、反乱を企てる気もなくなれば、もちろん、脱走する気も起きなくなるというわけである。そうして権力構造というのを盤石たらしめるというわけである。これは支配的な構造を作るために理に適った方法であるとフーコーは指摘している。

 

 パノプティコンという構造が罪人たちだけに用意された限定的なシステムであるとは考えない方が妥当かもしれない。フーコーは、パノプティコンの定義を「権力の自動化」であるとし、これらの考えが近代の学校教育に適用され、「規律や訓練」という概念に子供たちを嵌め込み、「学校という一種の権力に自発的に服従する主体を作り出してきた」と指摘する。また、東京大学教育科のある先生は、この考えが日本の教育にも無縁ではないのではないかと指摘している。「近代学校の権力の自動化というシステムも、その学校や建築構造に表れている」とした上で、このように続けている。


「わたしたちが小学校、中学、高校と過ごしてきたなかで、学校という建物は、いつもどこか堅苦しく、威圧的であったように思う。画一化された教室設計、整然と並べられた机、閉鎖的な職員室などがその原因となっているようだ。学校の建築自体が、秩序や規律といったものを無意識的に子供たちに植えつけてしまっているのではないか」


 このパノプティコンは、私たちの日常のいたるところに存在している。有史以来の社会における中央集権的な政治の基盤を形作る諸般の権力構造や支配構造に適用され、すなわち、人間の考えに資本的な概念を刷り込ませて、服従する対象者、あるいは対象物を設けることにより、被支配者は、その中央集権的な存在に対し、独立性を持つことはおろか、そこから逃れることさえできなくなるという次第である。これは、20世紀の世界全体として、社会主義/資本主義社会の中にある「監獄の構造」を浸透させることによって、それらの中央集権的な存在が支配下に置く被支配者たちを思いのまま手なづけ、その支配構造を強化してきた。これは、資本主義やそれと対極に位置する社会主義もまたその方向性こそ違えど、共通している事項なのである。

 

 その中央集権的な権力の基盤構造が揺らぐや、武力をちらつかせたり、動乱やショッキングな事件、時に、紛争を起こすことにより、20世紀の社会全体は、パノプティコンという巨大な社会の権力構造の中に築き上げられてきた。そして、ジョージ・オーウェルが指摘するように、その中央集権的な存在の正体がよくわからない、謎に包まれた存在であるということが肝要である。民衆はいつまでたっても、その中央集権を司る「絶対的な支配者」に一歩も近づくことも出来なければ、その存在すら明確に確認しえないということが、パノプティコンの重要な概念になっている。つまり、その存在がいてもいなくても、被支配者はその中央集権的な存在にいつも怯え、そして、時にはその存在に服従せざるを得ないという次第である。これは2000年代にレディオヘッドがいち早く音楽の中で「監視社会」という問題を提起していたし、JK・ローリングは「ヴォルデモート卿」という不可視の存在を作中に登場させたのは周知の通り。

 

 しかし、翻ってみると、長らく、このパノプティコンという建築構造がフーコーの哲学的なメタファーを表現するという役割にとどまるか、単なるフィクションのテーマに過ぎないと考えられてきた。しかし、パノプティコンの構造を持つ建築がスウェーデンにあり、実際、歴史的な遺構--アウシュビッツ収容所のような不気味な雰囲気を持つ、人類の歴史の暗所--として残されているという。現代音楽家のマリア・W・ホーンは、これまで歴史的な考察を交えて、ドローン・アンビエントやエレクトロニックという形を通じて、作曲活動を行ってきた。そして、最新作『パノプティコン』は、実際に同地にある中央集権的な構造を持つ監獄の遺構の中で録音されたというのである。

 

 そして録音場所のアコースティックな響きを上手く活用した作品が近年、ジャンルを問わず数多く見受けられることは何度か指摘している。一例では、ベルリンのファンクハウスの東西分裂時代のアンダーグラウンドな雰囲気を持つ録音や、イギリスの教会建築の中で録音された作品などである。これらの作品群は、たいてい、その録音された場所の空気感というべきものを吸収し、他では得難い特別な音楽の雰囲気を生み出す。それは、アビーロード・スタジオを使用するミュージシャンがどうしても、ビートルズの亡霊に悩まされるようなものであり、ピーター・ガブリエルの所有するスタジオでスターミュージシャンの音楽を意識せずにはいられないのと同様である。

 

 音楽的な出発として、空間が持つ空気感に充溢する奇妙な雰囲気を表現しようとしたのは、ハンガリーの作曲家、ゲオルグ・リゲティの「Atmospheres」が挙げられる。


独特な恐怖感と不気味さに充ちた現代音楽の傑作で、これはリゲティのユダヤ人としての記憶と、彼の親類が体験したアウシュビッツでの追体験が、不気味な質感を持って耳に生々しく迫るのである。それがどの程度、真実に根ざしたものなのかは別にしても、それらの記憶は確実に、作曲家の追体験という形で定着し、また生きる上での苦悩の元ともなったことは想像に難くない。

 



 ストックホルムを拠点に活動するマリア・W・ホーンの「Panoptikcon」も、基本的には同じ系譜にある独特な緊張感を持つアヴァンギャルドミュージックに位置づけられる。

 

スウェーデンにある監獄の遺構の空気感、その人類の歴史的な暗所の持つ負の部分を見つめ、それらを精妙なレクイエムのようなクワイアやアナログ・シンセサイザーを用いたドローンミュージック、エレクトロニックで浄化させようというのが、制作者の狙いや意図なのではなかったかと思われる。


これはまた、スウェーデンのカリ・マローンが制作した映画のサウンドトラックでのイタリアの給水塔のアンビエンスを用いた録音技術の概念性の継承でもある。「Panoptikon」はダークな雰囲気に浸されているが、同時に、その遺構物の上から、賛美歌のように精妙な光が差し込み、その暗部の最も暗い場所を聖なる楽音で包み込もうとする。この遺構こそ現代的に洗練された考えを持つスウェーデンという国家にとって、歴史の暗部であり、安易に触れることが難しいタブーでもあるのかもしれない。

 

 

 冒頭を飾る「Ominia Citra Mortem」は、四声の混声合唱、アナログシンセによって構成されている。オープニングの冒頭は、重低音のドローンで始まり、通奏低音を元にしてAlexander Knaifel(アレクサンダー・クナイフェル)、Valentin Silvestrov(ヴァレンティン・シルベストノフ)、Sofia Gubaidulina(ソフィア・グバイドゥーリナ)の作風によく見受けられるような、現代音楽の主要なコンポジションの1つである最初の重低音のドローンの通奏低音の後、パレストリーナ様式を始めとする教会旋法やポリフォニー構造に支えられた声楽の進行が加わる。

 

 しかし、マリア・W・ホーンの作風は、上記の現代作曲家の形式を受け継ぎながらも、シュトゥックハウゼンの電子音楽のトーン・クラスターの技法を用い、音色の揺らぎを駆使しながら、特異な音響性やそのスペシャリティーを追求している。フィリップ・グラスやライヒに象徴されるミニマル・ミュージックの構成が用いられているのは、他の現在の現代音楽と同様であるが、それは必ずしも反復という意味を持たず、反復の中にある矛盾的な変化が強調される。教会音楽の重要な形式であるユニゾンを用いた、四声によるクワイアの繰り返しの中に、スポークンワードを挟み、そして、最下部のドローンの重低音を意図的に消したりし、音の余白や空間を作り、クワイアの精妙な印象を際立たせる。これは数学的な足し算の手法ではなく、引き算の手法により、音の妙が構築されているところに、作曲家としての崇高性が宿っている。

 

 マリア・ホーンの生み出す表現の美の正体は、鈴木大拙に学んだジョン・ケージが提唱した禅(臨済宗)における「サイレンス」の観念を体現する「休符による音の空白」によって強調されることもある。と同時に、この曲の場合は、歴史的に触れられなかったタブーや社会の暗部に関するメタファーの役割が込められているように感じる。それらの空間のアンビエンスや亡霊的な合唱を、パノプティコン構造を持つ監獄のアコースティックな音響で増幅させる。それは何処かへ消しさられた人々への追悼を意味するのだろうし、その魂に対するレクイエムでもある。マリア・ホーンはコンポーザーとして、クワイアの最も崇高な印象を放った瞬間を見逃さず、声を消失させ、シンセによる重低音を再発生させ、エネルギーを徐々に、丹念に上昇させる。これらの声が途絶えた瞬間に、この曲の持つ凄みが現れ、そして圧倒的な感覚に打たれる。



 二曲目「Haec Est Regular Recti」は同様にアナログシンセの重低音により始まるが、重厚ではあるものの心苦しい雰囲気で始まった一曲目とは対象的に、開放的なメディエーションの作風に変化する。解釈の仕方によっては、ヨーロッパのチロル地方やその隣接地域のフォーク音楽の源流に近づきながら、同じように、混声のクワイアによって全体的なアンビエンスを作り出す。

 

 クワイアの印象が強かった全曲に比べると、シンセと合唱によるオーケストレーションのような印象がある。それはパイプオルガンの音色を持つシンセの演奏を1つのモチーフとしてコール・アンド・レスポンスやモード奏法のようなデイヴィスのモダン・ジャズの形式を取り入れ、オーケストラスコアとして組み上げていったかのようである。ひとつだけ確かなのは、マリア・ホーンにとっては、一見して分離されがちな、合唱、オルガン、シンセといった作曲のための手段は、現代音楽のオーケストレーションの一貫として解釈され、コンポジションに組み込まれているらしく、電子音楽でもなければ、ニュージャズでもない、ヨーロッパ民謡でもない、特異な印象のある楽音として昇華されるということなのだ。

 

 そして、同じくスウェーデンのCarmen Villan(カルメン・ヴィラン)がダブ・ステップやECMのニュージャズをドローン音楽に取り入れるのと同じように、必ずしも実験音楽の表現内にコンポジションの可能性を収めこもうとはしていない。むしろ、ひとつの表現を主体として、無限の可能性に向けて、音を無辺に放射していくかのようである。これは製作者が従来から、ピアノを用いたポスト・クラシカル、エレクトロニック、というように、ひとつのジャンルにこだわらず、多岐に渡る音楽を制作してきたことに理由がある。曲の終盤では、ダンスミュージックのビートに近づく場合があり、当初、メディエーションやヨーロッパの原始的なフォークミュージックが、現代的な質感を帯びる洗練された音楽へと変遷を辿っていく様子は、圧巻と言える。そして、アルバムの当初は、重苦しい印象だった音楽がループサウンドにより、崇高さと神聖さをあわせ持つエレクトロニック/IDMへと驚くべき変遷を辿っていくのである。

 




 アルバムの序盤の2曲は荘厳さと崇高さをあわせ持つが、タイトル曲「panoptikon」では低音部の重厚さを生かしたアンビエントが展開される。しかし、その静謐な印象の中に、トーン・クラスターの音色の変容の技法を散りばめ、従来にはなかったドローン音楽を追求していることがわかる。


 前の2曲では、パノプティコンという建築物が持つ独自の音響性を強調しているが、それと対比的に、タイトル曲では、DJセットのライブで聞かれるような現代的なエレクトロの音楽性が選ばれている。実験音楽の領域にありながら、その響きの中には、クラークやダニエル・ロパティンのような洗練されたアプローチを見出すこともできる。また、これは、現代音楽や実験音楽の範疇にある表現者とは異なる、DJとしてのマリア・ホーンの意外な姿を伺い知ることも出来よう。前2曲に比べ、五分というコンパクトな構成となっているが、シンセのトーンの変容の面白さ、それにときおり交わるノイズという部分にこのアルバムの真骨頂が垣間見える。


 アルバムは、声楽をもとにした合唱曲、エレクトロニック、アンビエント、そしてトーン・クラスター等、マリア・ホーンが持ちうる音楽的な蓄積が表れているが、その後、クローズ曲では、男女混声による声楽を基調とした柔らかい印象を持つ、二分ほどの簡潔なクワイアが収録されている。アルバムの最後を飾る「Langtans Vita Duva」 では、驚くべき音楽的な転換点を迎える。

 

 その純粋な響きの中には、西洋の賛美歌の伝統性の継承の意味が求められながらも、映画音楽やポピュラー音楽の色合いが僅かに加えられる。2つのコーラスのメロディーの進行の中には、ポピュラー音楽の旋律進行を持つ女性のボーカルと、それとは対比的に、賛美歌のような旋律進行を持つ男性のボーカルが交差し、柔らかなコントラストを形成する。つまり、これは『Panoptikon』が単に不可解な現代音楽ではなく、メディエーションに映画音楽と現地のポピュラー音楽を織り交ぜた新しい音楽の形式により構成されていることを表している。何より、マリア・ホーンが実験音楽を限られたファンに用意された閉鎖的な音楽と捉えず、それらを一般的に開けた表現法にするべく努めていることも真実の音楽を生み出す契機となったと考えられる。


 少なくとも、アルバム全体からは、パノプティコンの囚われからの解放というテーマにとどまらず、国家やその社会構造、ひいては、歴史の持つ負のイメージをどのように以後の時代に建設的に受け継いでいくのかという、表向きの暗鬱なイメージとは異なる、未来の社会に対する明るいメッセージを読み取ることもできる。しかし、これは国家や社会構造の持つ負の側面から目を背けるのではなく、その暗部を徹底して直視できたからこそ成し得た偉業なのである。

 


 



96/100

  

『Panopiticon』 はMaria・W・Hornのレーベル、XCathedralから2月2日から発売中。ご購入はこちら

Selah Broderick & Peter Broderick





セラ・プロデリックの静謐なスポークンワード、ピーター・ブロデリックがもたらす真善美


 ある日、セラ・ブロデリックが、彼女の息子でミュージシャン兼作曲家のピーター・ブロデリックに、「詩を音楽にするのを手伝ってくれない?」と頼んだとき、ピーターは即座に「イエス」と答えた。ピーター・ブロデリックは、セラの美しく傷つきやすい言葉を聴くと、母のこのアルバムの制作を手伝うことに専念したのだ。


『Moon in the Monastery』を構成する8曲は、以後、2、3年かけてゆっくりと着実に作られた。ピーター・ブロデリックの膨大な楽器コレクションと、マルチ・インストゥルメンタリストとしての長年の経験(ヴァイオリン、ピアノ、パーカッションなど)を生かし、ブロデリック親子は試行錯誤のプロセスに着手し、それぞれの詩にふさわしい音楽の音色を辛抱強く探し求めた。


時には、ピーターが母親からフルートを吹いているところを録音してもらい、それをサンプリングの素材にすることもあった。例えば、オープニング曲『The Deer』は、オレゴンの田舎町の丘に日が沈むある晩、野生の鹿との神秘的な出会いを語る彼女の完璧な背景として、サンプリングされ、操作され、彫刻されたセラのフルートだけで構成されている。



ヒーリング・アートに30年以上携わってきたセラの詩は、彼女の職業生活の自然で個人的な延長線上にある。ヨガ、理学療法、マッサージ、ホスピスなど、さまざまな分野で経験を積んだセラは、自身の内面を癒す旅を続けながら、人々の癒しを助けることに人生の多くを捧げてきた。


彼女の文章は、極めて個人的なものから普遍的で親しみやすいものまで、時にはひとつのフレーズで表現される。彼女のペンは、感傷的というより探究心を感じさせる方法で、人間の経験の核心を掘り下げる。


アルバムの中盤、「Faith」という曲の中で彼女はこう言っている。「信仰...それは私の心をとらえ、刻み込み/そして溶けてなくなる/私がその瞬間ごとにそれを更新し続けることを求めそうになる/私がそれを手放し、再びそれを見つけたとき、おそらくそれは深まるのだろうか?」


7曲のスポークン・ワード・トラックの制作を終えたセラとピーターは、アルバムの最後を締めくくる瞑想的なサウンドスケープを作り上げた。


アルバムの8曲目、最後のトラックであるタイトル曲『Moon in the Monastery』は、セラの魅惑的なフルート演奏を再び際立たせ、前の7曲の内容を沈めるための穏やかで夢のような空間を提供している。



Selah Broderick & Peter Broderick 『Moon in the Monastery』/ Self Release




 オレゴン州の現代音楽家、ピーター・ブロデリックはこれまで、ロンドンの''Erased Tapes''から良質な音楽をリリースし続けて来た。ピアノによるささやかなポスト・クラシカルをはじめ、くつろいだボーカルトラック、フランスのオーケストラとのコラボレーションを行うなど、その作風は多岐に渡る。ブロデリックの作風は、アンビエント、コンテンポラリー・クラシカル、インディーフォーク、というように1つのジャンルに規定されることはほとんどない。

 

ニューアルバム『Moon in the Monasteryー修道院の月』は、40分ほどのコンパクトな作品にまとめ上げられている。その内訳は、7つのスポークンワードを基調とするバリエーションと、最後に収録されている20分の静謐で瞑想的な響きを持つ超大なエンディングで構成されている。


記憶に新しいのは、昨年、ピーター・ブロデリックはフランスのオーケストラ、"Ensemble O"と協力し、アーサー・ラッセルのスコアの再構成に取り組んでいる。本作の再構成の目論見というのは、米国のチェロ奏者/現代音楽の作曲家の隠れた魅力に脚光を当てることであったが、と同時に従来のブロデリックのリリースの中でも最も大掛かりな音楽的な試みとなった。

 

なおかつ、他のミュージシャンやバンドと同じように、1つの経験が別の作品の重要なインスピレーションになる場合がある。実際、このアルバムは、前作の『Give It To The Sky』と制作時期が重なっており、制作を併行して行ったことが、音楽そのものに何らかの働きかけをしたと推測できる。


とくに、ブロデリックは、2分、3分ほどのミニマル・ミュージックを制作してきたのだったが、この数年では、より映画のスコアのように壮大なスケールを持つ作曲も行っている。前作で「ヴァリエーション」の形式に挑戦したことに加え、「Tower Of Meaning X」では、15:31の楽曲制作に取り組んでいる。つまり、変奏曲と長いランタイムを持つ曲をどのようにして自らの持つイマジネーションを駆使して組み上げていくのか、そのヒントはすでに前作で示されていたのだった。

 

もうひとつ、ピーター・ブロデリックといえば、クラシックのポピュラー版ともいえるポスト・クラシカルというジャンルに新たな風を呼び込んだことで知られている。とくに、彼が以前発表した「Eyes Closed And Traveling」では、教会の尖塔などが持つ高い天井、及び、広い空間のアンビエンスを作風に取り入れ、Max Richterに代表されるピアノによるミニマル・ミュージックに前衛的な音楽性をもたらすことに成功した。これはまた、ロンドンのレーベル”Erased Tapes”の重要な音楽的なプロダクションとなり、ゴシック様式の教会等の建築構造が持つ特殊なアンビエンスを活用したプロダクションは実際、以降のロンドンのボーカルアートを得意とする日本人の音楽家、Hatis Noitの『Aura』(Reviewを読む)というアルバムで最終的な形となった。

 

『Moon in the Monastery』は、彼の母親との共作であり、瞑想的なセラのスポークンワード、フルートの演奏をもとにして、ピーター・ブロデリックがそれらの音楽的な表現と適合させるように、アンビエント風のシークエンスやパーカッション、ピアノ、バイオリンの演奏を巧みに織り交ぜている。アルバムのプロダクションの基幹をなすのは、セラ・ブロデリックの声とフルートの演奏である。ピーターは、それらを補佐するような形でアンビエント、ミニマル音楽、アフロ・ジャズ、ニュージャズ、エクゾチック・ジャズ、ニューエイジ、民族音楽というようにおどろくほど多種多様な音楽性を散りばめている。例えれば、それは舞台芸術のようでもあり、暗転した舞台に主役が登場し、その主役の語りとともに、その場を演出する音楽が流れていく。主役は一歩たりとも舞台中央から動くことはないが、しかし、まわりを取り巻く音楽によって、着実にその物語は変化し、そして流れていき、別の異なるシーンを呼び覚ます。

 

主役は、セラ・ブロデリックの声であり、そして彼女の紡ぐ物語にあることは疑いを入れる余地がないけれど、セラのナラティヴな試みは、飽くまで音楽の端緒にすぎず、ピーターはそれらの物語を発展させるプロデューサーのごとき役割を果たしている。


プレスリリースで説明されている通り、セラは、「オレゴンの田舎町の丘に日が沈むある晩、野生の鹿との神秘的な出会い」というシーンを、スポークンワードという形で紡ぐ。声のトーンは一定であり、昂じることもなければ、打ち沈むこともない。ある意味では、語られるものに対してきわめて従属的な役割を担いながら、言葉の持つ力によって、一連の物語を淡々と紡いでいくのだ。


シャーウッド・アンダソンの『ワインズバーグ・オハイオ』の米国の良き時代への懐古的なロマンチズムなのか、それとも、『ベルリン 天使の詩』で知られるペーター・ハントケの『反復』における旧ユーゴスラビア時代のスロヴェニアの感覚的な回想の手法に基づくスポークンワードなのか、はたまた、アーノルト・シェーンベルクの「グレの歌」の原始的なミュージカルにも似た前衛性なのか。いずれにしても、それは語られる対象物に関しての多大なる敬意が含まれ、それはまた、自己という得難い存在と相対する様々な現象に対する深い尊崇の念が抱かれていることに気がつく。

 

当初、セラ・ブロデリックは、オレゴンの、のどかな町並み、自然の景物が持つ神秘、動物との出会いといったものに意識を向けるが、それらの言葉の流れは、必ずしも、現象的な事物に即した詩にとどまることはない。日が、一日、そしてまた、一日と過ぎていくごとに、外的な現象に即しながら、内面の感覚が徐々に変化していく様子を「詩」という形で、克明にとどめている。


セラ・ブロデリックの内的な観察は真実である。それは、自然や事実に即しているともいうべきか、自分の感情に逆らわず、いつも忠実であるべく試みる。彼女は明るい正の感覚から、それとは正反対に、目をそむけたくなるような内面の負の感覚の微細な揺れ動きを、言葉としてアウトプットする。


その感覚は驚くほど明晰であり、感情を言葉にした記録のようであり、それとともに、現代詩やラップのような意味を帯びる瞬間もある。内的な感情が、刻一刻と変遷していく様子がスポークンワードから如実に伝わってくる。そして、それらの言葉、物語、感情の記録を引き立て芸術的な高みに引き上げているのが、他でもない、彼女の息子のピーター・ブロデリックである。彼は、アンビエントを基調とするシンセのシークエンスを母の声の背後に配置し、それらの枠組みを念入りに作り上げた上で、巧みなフルートの演奏を変幻自在に散りばめている。サンプリングの手法が取り入れられているのか、それとも、リアルタイムのレコーディングがおこなわれているのかまでは定かではないが、言葉と音楽は驚くほどスムーズに、緩やかに過ぎ去っていく。

 

ピーター・ブロデリックの作風としてはきわめて珍しいことであるが、アルバムの序盤の収録曲「I Am」では、民族音楽の影響が反映されている。


一例としては、''Gondwana Records''を主催するマンチェスターのトランペット奏者、Matthew Halsall(マシュー・ハルソール)が最新アルバム『An Ever Changing View』において示した、民族音楽とジャズの融合を、最終的にIDM(エレクトロニック)と結びつけた試みに近いものがある。


アフリカのカリンバの打楽器の色彩的な音階を散りばめることにより、当初、オレゴンの丘で始まったと思われる舞台がすぐさま立ち消えて、それとは全然別の見知らぬ土地に移ろい変わったような錯覚を覚える。


そして、カリンバの打楽器的な音響効果を与えることにより、セラ・ブロデリックのスポークンワードは、力強さと説得力を帯びる。それは、ニューエイジやヒーリングの範疇にある音楽手法とも取れるだろうし、ニュージャズやエキゾチック・ジャズの延長線上にある新しい試みであるとも解せる。 

 

 

 

少なくとも、ジャンルの中に収めるという考えはおろか、クロスオーバーという考えすら制作者の念頭にないように思えるが、それこそが本作の音楽を面白くしている要因でもある。その他にも旧来のブロデリックが得意とするアンビエントの手法は、序盤の収録曲で、コンテンポラリー・クラシック/ポスト・クラシカルという制作者のもうひとつの主要な音楽性と合致している。


ピーター・ブロデリックは、バイオリンのサンプリング/プリセットを元にして、縦方向でもなく、横方向でもない、斜めの方向の音符を重層的に散りばめながら、イタリアのバロックや中世ヨーロッパの宗教音楽をはじめとする「祈りの音楽」に頻々に見受けられる「敬虔な響き」を探求しようとしている。上記のヨーロッパの教会音楽は、押し並べて、演奏者の上に「崇高な神を置く」という考えに基づいているが、不思議なことに、「Mother」において、セラ・ブロデリックの語りの上を行くように、ヴァイオリンの響きがカウンターポイントの流れを緻密に構築しているのである。


同じように、Matthew Halsall(マシュー・ハルソール)が最新作で示したようなアフロジャズとオーガニックな響きを持つIDMの融合は、続く「Faith」にも見出すことができる。ここではセラのトランペットのような芳醇な響きを持つフルートの演奏、ジャズ的な音楽の影響を与えるスポークンワード、シンセのプリセットによるバイオリンのレガート、さらに、奥行きを感じさせるくつろいだアンビエントのシークエンスという、複合的な要素が綿密に折り重なることで、モダン・ラップのようなスタイリッシュな響きを持ち合わせることもある。


シンセのシークエンスが徐々にフルートの演奏を引き立てるかのように、雰囲気や空気感を巧みに演出し、次いで、最終的にはセラ・ブロデリックの伸びやかなフルートの演奏が音像の向こうに、ぼうっと浮かび上がてくる。アフロ・ジャズを基調とした彼女の演奏が神妙でミステリアスな響きを持つことは言うまでもないが、どころか、アウトロにかけて現実的な空間とは異なる何かしら神秘的な領域がその向こうからおぼろげに立ち上ってくるような感覚すらある。

 

アルバムの序盤は温和な響きを持つ音楽が主要な作風となっているが、中盤ではそれとは対象的に、Jan Garbarek(ヤン・ガルバレク)の名曲「Rites」を思わせるような独特なテンションを持つ音楽が展開される。

 

続く「Cut」では、映画音楽のオリジナルスコアの手法を用い、緊張感のある独特なアンビエンスを呼び覚ます。イントロのセンテンスが放たれるやいなや、空間の雰囲気はダークな緊迫感を帯びる。それは形而上の内的な痛みをひとつの起点にし、スポークンワードが流れていくごとに、自らの得がたい心の痛みの源泉へと迫ろうという、フロイト、ユング的な心理学上の試みとも解せる。それらはピーターによるノイズ、ドローン的なアルバムの序盤の収録曲とは全く対蹠的に、内的な歪みや亀裂、軋轢を表したかのような鋭いシークエンスによって強調される。 

 

Tim Hecker(ティム・ヘッカー)が『No Highs』(Reviewを読む)で示した「ダーク・ドローン」とも称すべき音楽の流れの上をセラ・ブロデリックの声が宙を舞い、その着地点を見失うかのように、どこかに跡形もなく消え果てる。そして、それらのドローンによる持続音が最も緊張感を帯びた瞬間、突如そのノイズは立ち消えてしまい、無音の空白の空間が出現する。そして、急転直下の曲展開は、続く「静寂」の導入部分、イントロダクション代わりとなっている。


「Silence」では、対象的に、神秘的なサウンドスケープが立ち上る。アンビエントの範疇にある曲であるが、セラの声は、旧来のアンビエントの最も前衛的な側面を表し、なおかつこの音楽の源泉に迫ろうとしている。2つの方向からのアプローチによる音楽がそのもの以上の崇高さがあり、心に潤いや癒やしをもたらす瞬間すらあるのは、セラ・ブロデリックの詩が自然に対する敬意に充ちていて、また、その中には感謝の念が余すところなく示されているからである。


続く「True Voice」では、精妙な感覚が立ち上り、声の表現を介して、その感覚がしばらく維持される。ピーター・ブロデリックの旧来のミニマリズムに根ざしたピアノの倍音を生かした演奏が曲の表情や印象を美麗にしている。これは『Das Bach Der Klange』において、現代音楽家のHerbert Henck(ヘルベルト・ヘンク)がもたらしたミニマル・ピアノの影響下にある演奏法ーー短い楽節の反復による倍音の強化ーーの範疇にある音楽手法と言えるかもしれない。


20分以上に及ぶ、アルバムのクローズ曲「Moon in the Monasteryー修道院の月」は、ニューエイジ/アンビエントの延長線上にある音楽的な手法が用いられている。一見すると、この曲は、さほど前衛的な試みではないように思える。しかし、ブロデリックは、パーカションの倍音の響きの前衛性を追求することで、終曲を単なる贋造物ではない、唯一無二の作風たらしめている。


その内側に、チベット、中近東の祈りが込められていることは、チベット・ボウル等の特殊な打楽器が取り入れられることを見れば瞭然である。なおかつ、クローズ曲は、ドローン・アンビエントの範疇にある、現代音楽/実験音楽としての最新の試みがなされていると推察される。しかし、その響きの中には真心があり、豊かな感情性が含まれている。取りも直さずそれは、音楽に対する畏敬なのであり、自然や文化全般、自らを取り巻く万物に対する敬意にほかならない。これらの他の事物に対する畏れの念は、最終的には、感謝や愛という、人間が持ちうる最高の美へと転化される。

 

音楽とは、そもそも内的な感情の表出にほかならないが、驚くべきことに、これらは先週紹介したPACKSとほとんど同じように、「平均的な空間以上の場所」に聞き手を導く力を具えている。抽象的なアンビエント、フルート、スポークンワード、鳥の声、ベル/パーカッションの倍音、微分音が重層的に連なる中、タイトルが示す通り、幻想的な情景がどこからともなく立ち上がってくる。その幻惑の先には、音楽そのものが持つ、最も神秘的で崇高な瞬間がもたらされる。それは一貫して、教会のミサの賛美歌のパイプ・オルガンのような響きを持つ、20分に及ぶ通奏低音と持続音の神聖な響きにより導かれる。極限まで引き伸ばされる重厚な持続音は、最終的に、単なる幻想や幻惑の領域を超越し、やがて「真善美」と呼ばれる宇宙の調和に到達する。

 

 



95/100






Selah Broderick & Peter Broderick 『Moon in the Monastery』は自主制作盤として発売中です。アルバムのご購入はこちら




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PACKS


 

PACKSの名義で音楽を制作するトロントのマデリン・リンクは、常に周囲の環境にインスピレーションを見出してきた。最新作『Melt the Honey』(1年ぶり2作目のフルアルバム)の制作にあたり、彼女はこれまでの作品に影響を与えてきた平凡な空間を超えたところに目を向けたいと考えた。


昨年3月の11日間、リンクと彼女のバンドメンバー(デクスター・ナッシュ(ギター)、ノア・オニール(ベース)、シェーン・フーパー(ドラムス))は、メキシコ・シティに再び集まった。2020年にカーサ・リュでアーティスト・イン・レジデンスを行ったことのある彼らにとって思い入れのある場所でもある。PACKSは、スタジオを借りて新曲を練習し、メンバーそれぞれが美的感覚を持ち寄った。そこからバスでハラパに移動したのち、メキシコ・シティで著名な劇場兼音楽ホール、テアトロ・ルシドの構想者であるウェンディ・モイラが所有・運営する、都会の喧騒から切り離された建築物、「カサ・プルポ」と呼ばれる家で残りの海外滞在期間を過ごした。


『メルト・ザ・ハニー』の制作は、2021年のデビュー作『テイク・ザ・ケイク』から参加しているミュージシャンたちが再び集結し、共同作業を行った。レコーディングに感じられる活気の一部は、マデリン・リンクの人生の根底にある感情の変化、恋に落ちたことにも由来しているという。長い間ひとりでやってきたことで、リンクはようやく、自分が大切にされていることを知ることで得られる安らぎを受け入れている。


「これらの曲は、今まで書いたどの曲よりもハッピーというか、楽観的なんだ」とリンクは言う。このアルバムのタイトルは、チリのビーチ・タウンで書かれたシングル曲「Honey」に由来している。マデリン・リンクはこのような感情の中で過ごし、ロマンチックなパートナーと家を共有し、誰かがそばにいるという視点を通して、人生をよりスムーズに経験できるようにしていた。リンクがより幸せな心境にある一方、『メルト・ザ・ハニー』は彼女の感情を徹底して掘り下げ、新たな音の領域を開拓している。Pearly Whitesのスカジーなシューゲイザーから "AmyW "のサイケなテクスチャーの間奏曲に至るまで、『Melt the Honey』は最も磨き上げられたアルバムとなった。

 


PACKS  『Melt the Honey』‐ Fire Talk


 

ここ10年ほど、「米国のオルタナティヴ・ロック」という音楽の正体について考えてきたが、ひとつ気がついたことがある。「ALT」という言葉には「亜流」という意味があり、主流に対するアンチテーゼのような趣旨が込められている。ひねりのあるコードやスケール、旋律の進行に象徴される音楽というのが、このジャンルの定義付けになっている。しかし、ひねりのあるコードやスケールを多用したとしても、米国のオルタナティヴの核心に迫ることは難しい。

 

なぜなら、オルタナティブというジャンルには、多彩な文化の混交やカントリー/フォークのアメリカーナ、合衆国南部の国境周辺からメキシコにかけての固有の文化性や音楽が含まれているからなのだ。つまり、The Ampsのキム・ディールやPixiesのジョーイ・サンティアゴが示してきたことだが、米国南部の空気感やメキシコの文化性がオルタナティヴというジャンルの一部分を構成し、それがそのまま、このジャンルの亜流性の正体ともなっているのである。


PACKS(マデリン・リンク)は正確に言えば、カナダのアーティストであるが、バンド形態で米国のオルタナティヴという概念の核心に迫ろうと試みている。メキシコ・シティにバンドメンバーと集まり、ウェンディ・モイラが所有・運営する、都会の喧騒から切り離された建築物、「カサ・プルポ」を拠点として、レコーディングを行ったことは、東海岸のオルタナティヴロック・バンドとは異なる米国南部、あるいはメキシカーナの雰囲気を生み出す要因となった。それはまた、Nirvanaに強い影響を及ぼし、MTV Unpluggedにも登場したMeat Puppetsのセカンドアルバム『Ⅱ』に見受けられるアリゾナの独特な雰囲気ーーサボテン、砂漠、カウボーイハット、荒れ馬、度数の強いテキーラーーこういったいかにもアメリカ南部とメキシコの不思議な空気感が作品全体に漂っている。たとえそれがステレオタイプな印象であるとしても。


そして、マデリン・リンクのボーカルには、ほどよく肩の力が抜けた脱力感があり、Big Thiefの主要なメンバーであるバック・ミーク、エイドリアン・レンカーのように、喉の微妙な筋力の使い方によって、ピッチ(音程)をわざとずらす面白い感じの歌い方をしている。一見すると、アデルやテイラー・スフィフトの現代の象徴的な歌手の歌い方から見ると、ちょっとだけ音痴のようにも聞こえるかもしれない。しかし、これは「アメリカーナ」の源流を形作るフォーク/カントリー、ディキシーランドの伝統的な歌唱法の流れを汲み、このジャンルの主要な構成要素ともなっている。そしてこれらのジャンルを、スタンダードなアメリカンロックや、インディーズ色の強いパンク/メタルとして濾過したのが米国のオルタナティヴの正体だったのである。

 

オープニングを飾る「89  Days」は、上記のことを如実に示している。PACKSは、アーティストが描く白昼夢をインディーロックにシンプルに落とし込むように、脱力感のあるライブセッションを披露している。


それは、現代社会の忙しない動きや無数に氾濫する情報からの即時的な開放と、粗雑な事物からの完全な決別を意味している。ボーカルは、上手いわけでも洗練されているわけでもなく、ましてや、バックバンドの演奏が取り立てて巧みであるとも言いがたい。それでも、ラフでくつろいだ音楽が流れ始めた途端、雰囲気がいきなり変化してしまう。ビートルズのポール・マッカートニーの作曲性を意識したボーカルのメロディー進行、インディーフォーク、ローファイに根ざしたラフなアプローチは、夢想的な雰囲気に彩られている。そのぼんやりとした狭間で、ヨット・ロックへの憧れや、女性らしいロマンチズムが感情的に複雑に重なり合う。そして、現代的な気風と、それとは相反する古典的な気風が溶け合い、アンビバレントな空気感を生み出す。

 

本作のタイトル曲代わりである「Honey」においても、マデリン・リンクとバンドが作り出す白昼夢はまったく醒めやることがない。

 

アーティストのグランジロックに対する憧れを、ビック・シーフのようなインディーフォークに近い音楽性で包み込んだ一曲である。そしてその中には、アリゾナのミート・パペッツのようなサイケやアメリカーナ、メキシカーナとサイケデリックな雰囲気も漂う。内省的で、ほの暗い感覚のあるスケールやコード進行を用いているにもかかわらず、曲の印象は驚くほど爽やかなのだ。


一曲目と同様、PACKのバンドの演奏は、ラフでローファイな感覚を生み出すが、それ以上にマデリン・リンクの声は程よい脱力感がある。それがある種の安らいだ感覚をもたらす。これらの夢想的な雰囲気は、ラフなギターライン、ベース、ドラム、そして、ハモンドオルガンによって強化される。 

 

「Honey」

 



「Pearly Whites」でも、ミート・パペッツを基調とした程よく気の抜けたバンドサウンドとグランジの泥臭いロックサウンドが融合を果たす。マデリン・リンクのボーカルは、Green River、Mother Love Bone、Pavementといったグループのザラザラとした質感を持つハードロック、つまりグランジの源流に位置するバンドが持つ反骨的なパンク・スピリットを内包させている。そして、これらのヘヴィ・ロックのテンポは、ストーナー・ロックのようにスロウで重厚感があり、フロントパーソンの聞きやすいポピュラーなボーカルと鋭いコントラストを描いている。ボーカルそのものは軽やかな印象があるのに、曲全体には奇妙な重力が存在する。ここに、バンド、フロントマンの80年代後半や90年代のロックに対する愛着を読み取ることができるはずだ。しかし、この曲がそれほど古臭く感じないのは、Far Caspianのような現代的なローファイの要素を織り交ぜているからだろう。

 

ローファイの荒削りなロックのアプローチは、その後も続いている。先行シングルとして公開された「HFCM」は、「ポスト・グランジ」とも称すべき曲であり、『Melt The Honey』のハイライトとも言える。Mommaの音楽性を思わせるが、それにアンニュイな暗さを付加している。相変わらずマデリン・リンクのボーカルには奇妙な抜け感があり、ファジーなディストーションギターとドラム、ベースに支えられるようにして、曲がにわかにドライブ感を帯びはじめる。楽節の節目にブレイクを交えた緩急のあるロックソングは、リンクのシャウトを交えたボーカルとコーラスにより、アンセミックな響きを生み出すこともある。曲のアウトロでは、ファジーなギターが徐々にフェイドアウトしていくが、これが奇妙なワイルドさと余韻を作り出している。

 

「Amy W」は、インストゥルメンタルで、Softcult,Winter、Tanukicyanのような実験的なシューゲイズバンドのサウンドに近いものが見いだせる。その一方で、ニューヨークのプロトパンクの象徴であるTelevision、Stoogesのようなローファイサウンドの影響下にあるコアな演奏が繰り広げられる。ギターラインは、夢想的な雰囲気に彩られ、ときにスコットランドのMogwaiのような壮大なサウンドに変化することもある。たしかに多彩性がこの曲の表面的な魅力ともなっているが、その奥底には、鋭い棘のようなパンク性を読み解く事もできる。そして、この曲でも前曲と同じように、アウトロにフェードアウトを配することで、微かな余韻を生み出し、80年代後半と90年代のロックのノスタルジックな空気感を作り出す。この曲のプロダクションは、アナログの録音機材によるマスタリングが施されているわけではないと思われるが、バンドサウンドの妙、つまりリズムの抜き差しによってモノラルサウンドのようなスペシャルな空気感を生み出している。これぞまさしく、ボーカリストとPACKSのメンバーが親密なセッションを重ねた成果が顕著な形で現れたと言えるだろう。

 

 

このアルバムには、80年代、90年代のオルト・ロックからの影響も含まれているが、他方、それよりも古い、The Byrds、Crosby Still& Nash(&Young)のようなビンテージ・ロックの影響を織り交ぜられることもある。


「Take Care」は、70年代のハードロックの誕生前夜に見られるフォーク/カントリーにしか見出せない渋さ、さらに泥臭さすら思わせるマディーなロックサウンドが、エイドリアン・レンカーの影響をうかがわせるマデリン・リンクの力の抜けたボーカルと合致し、心地よい空気感を生み出す。


そして、リンクのボーカルは、ファニーというべきか、ファンシーというべきか、夢想的で楽しげな雰囲気に彩られる。これがアンサンブルに色彩的な変化を与え、カラフルなサウンドを生み出す。クラフトワークのエミール・シュルトのように「共感覚」という言葉を持ち出すまでもなく、一辺倒になりがちな作風に、リンクのボーカルが、それと異なる個性味を付け加えている。それがこの曲を聴いていると、晴れやかな気分になる理由でもあるのかもしれない。

 

グランジとフォークの組み合わせは、「Grunge-Folk」とも呼ぶべきアルバムの重要なポイントを「Her Garden」において形作る。破れた穴あきのデニムや中古のカーディガンを思わせる泥臭いロックは、Wednesdayの最新アルバムに見いだせるような若い人生を心ゆくまで謳歌する青臭さという形で昇華される。それらが、上記の70年代のビンテージ・ロック、ローファイ、サイケという3つの切り口により、音楽性そのものが敷衍されていき、最終的にPACKにしか作り出せない唯一無二のオルタナティヴ・ロックへと変化していく。この曲も取り立てて派手な曲の構成があるわけではないが、ビンテージなものに対する憧憬がノスタルジックな雰囲気を作り出す。


 「Her Garden」

 


マデリン・リンクは驚くべきことに、ミート・パペッツやニルヴァーナのボーカリストの旋律の進行や事細かなアトモスフィアに至るまで、みずからのボーカルの中にセンス良く取り入れている。なおかつ、その底流にある「オルタナティヴ」という概念はときに、成果主義や完璧主義というメインストリームの考えとは対極にある「未知の可能性」を示唆しているように感じられる。


「Paige Machine」は、サイケ・ロックを和やかなボーカルでやわらかく包み込む。そしてこの曲には、ミートパペッツのようなメキシカンな雰囲気に加え、ピクシーズのような米国のオルタナティヴの核心をなすギターライン、ピンク・フロイドの初代ボーカリストであるシド・バレットが示したサイケデリック・フォークという源流に対する親和性すら見出す事もできなくもない。


続く「Missy」は 、ファニーな感覚を擁するインディーロックソングにより、PACKSが如何なるバンドであるのかを示している。ここでも、バンドとボーカリストのマデリン・リンクは、夢想的とも称すべき、ワイアードなロマンチシズムをさりげなく示す。きわめつけは、「Trippin」では、バレットの「The Madcaps Laughs」の収録曲「Golden Hair」に象徴される瞑想的なサイケ・フォークの核心に迫り、それをアメリカーナという概念に置き換えている。

 

「Time Loop」でアルバムはクライマックスを迎える。クローズ曲は、ビンテージな音楽から、モダンなインディーフォークのアプローチに回帰する。派手なエンディングではないものの、本作のエンディングを聞き終えた時、映画「バグダッド・カフェ」を見終えた後のような淡いロマンを感じる。


PACKSのバンドのラフなライブ・セッション、マデリン・リンクのファニーなボーカルは、アルバムの冒頭から最後まで一貫して、「白昼夢」とも呼ぶべき、心地良い空気感に縁取られている。そして、Fire Talkのプレスリリースに書かれている「平凡な空間を越える」という表現については、あながち脚色であるとも決めつけがたい。アルバムのクライマックスに至ると、フォーク/カントリーの象徴的な楽器であるスティール・ギターのロマンチックでまったりとした感覚を透かして、アリゾナの砂漠、サボテン、カウボーイハット、それらの幻想の向こうにあるメキシコの太陽の眩いばかりの輝きが、まざまざと目に浮かび上がってくるような気がする。

 

 

「Paige Machine」

 

 

 

85/100

 

 

PACKSのニューアルバム『Melt The Honey』は”Fire Talk”より本日発売。アルバムのご購入はこちら、Bandcampから。

 





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Weekly Music Feature

Nailah Hunter
 

LAを拠点に活動するマルチ・インストゥルメンタリスト、ハープ奏者、そしてコンポーザーでもあるネイラ・ハンター(Nailah Hunter)は、2019年から神秘的なフォークとアンビエントにインスパイアされた音楽を録音し、複数のシングルと2枚のEPを発表している。『Spells』と、最近では『Quietude』が挙げられる。ファット・ポッサムと契約した今作『Lovegaze』はハンターのデビュー・フルレングス、リスナーを彼女の魅惑的な宇宙観に引き込む魅惑的なアルバムだ。


ベリーズ人牧師の娘として生まれたハンターは、教会でドラムやギターを演奏し、聖歌隊で歌うことから音楽の道を歩み始めた。


以後、カルフォルニア芸術大学で音楽を学び、ヴォーカル・パフォーマンスを学んだ後、初めてハープのレッスンを受けた。ハープという楽器をファンタジー、サイケデリア、夢の世界と結びつけて考えたハンターは、すぐにその虜となり、1日6時間部屋に閉じこもって練習した。


『Lovegaze』を制作するため、ハンターはイギリス海峡沿いの小さな海岸都市に移り住み、そこで借りたケルティック・ハープでデモ・レコーディングを始めた。ロンドンを拠点とするプロデューサー、シセリー・ゴルダーを紹介されたハンターは、1年後にイギリスに戻り、さらに曲を練り上げた。こうして完成した作品集『Lovegaze』は、自然界の回復力に対する妖艶な証しである。 



『Lovegaze』 Fat Possum



 2021年のアルバム『Sleeping Sea』では、アンビエント/ヒーリング・ミュージックを中心とする音楽制作に取り組んだロサンゼルスのネイラ・ハンター。ミシシッピのファット・ポッサムと契約を新たに交わしてリリースする『Lovegaze』で大々的な転換点を迎えようとしている。

 

よくあることだが、制作の拠点を移動したことにより、音楽性もガラリと変化するケースがある。あるミュージシャンはイギリスからロサンゼルスへ行き、あるアーティストはニューヨークへ向かい、その作風を変化させようとする。実際、人間は、周囲の環境に影響を受けやすく、日頃接する体験や見る風景により、考えどころか音楽性も変化する。音楽とは感覚の発露であるとともに、感情の結晶体でもある。それを澄明な性質に自在に変化させるのが傑出したアーティストの特徴なのだ。無論、様々な音楽的な語法を持つ表現者の特権とも言えるだろう。

 

ネイラ・ハンターは、上記とは真逆のケースに属する。ハープ奏者はロサンゼルスからイギリスに一時的に拠点を移し、音楽的な結末に何らかの力を加えようとした。結果、アンビエント、ヒーリング・ミュージックを基調とする1stアルバムからは想像しがたい音楽が生み出された。ハープの演奏、ナイラ・ハンター自身のミステリアスなボーカル、そしてアルバム全体には、ポーティスヘッド、トリッキーに象徴づけられるブリストル・サウンドのアトモスフィアが漂う。

 

表面的には、アーティストは、主体となる音楽性をひけらかすことを遠慮しているように思えるが、ロンドンのジェイムス・ブレイク、キング・クルーを彷彿とさせる現代的なネオ・ソウルの影響を力強く反映させ、新たなポピュラー音楽の未来形、理想形を示そうとしている。それらを外側から包み込むのは、ミステリアスなムード、アンビエントを下地にしたアトモスフィアである。これらの収録曲は、ハープをもとに書かれたというが、表向きにはこの楽器が主体のアルバムとは断定しかねる部分もある。ハープのグリッサンドをはじめとする装飾音の効果をベースにして、ポップス、ヒップホップ、ネオソウル、ジャズ、これらの複合的な音楽の澄明なレンズを通して、その向こう側にほの見えるかすかなトリップ・ホップを照射しようとしている。

 

幸いなことに、ネイラ・ハンターには、ストーリーの起伏を設けるという作曲術が備わっている。それは音楽を文学的に語るというのではなく、音楽そのもので一連の物語を紡いでいく。

 

『Lovegaze』のオープニングを飾る「Strange Delights」は、アルバム全体の序章代わりとなっている。まるで山頂に降り積もる雪が、夜明けの太陽の光に当てられ、徐々に溶け始め、清冽な水と変わるように、ミステリアスなムードに包まれながら、リバーブを配したピアノの伴奏に導かれるようにして、ネイラ・ハンターの歌がゆっくりと始まる。ネイラ・ハンターのボーカルは、ヒーリングミュージックやメディエーションの範疇にあり、それとともにかすかなソウルの質感を漂わせている。シネマの導入部を映画館で見るかのようなダイナミックな音響性は、徐々に反復的なピアノのフレーズ、その背後に滲むアンビエントのシークエンスにより強化されていき、制作者が示そうとする音楽的な世界観とも称すべき表現性を丹念に敷衍させていく。

 

本作の冒頭では、全体的な構造の途中にあるダンスミュージックやエレクトロニックの影響がそれとなく示されたに過ぎないが、二曲目「Through The Din」では、アーティストのバックグランドを成す副次的な音楽のレンズを介して、本作の核心を形づくるトリップ・ホップを照射しはじめる。1990年代にポーティスヘッドのギボンズやジェフがそうしたように、ヒップホップ、ジャズ、R&Bをカットアップし、ブレイクビーツの中に収めるのだ。「Dummy」が登場した時代に象徴されるミステリアスで暗鬱なサウンドをハンターはしたたかに踏襲し、アンニュイで陰影のあるボーカルをしなるようなビートという形で昇華している。ハンターは、単一のジャンルに音楽を止めることを避け、複数のジャンルにある曖昧さを強調しようとしている。これは、ロンドンの複雑な音楽の文化の反映がこういった働きかけをしたものと考えられる。

 

3曲目の「Finding Mirrors」では、そのことがさらに明瞭となるかもしれない。ハンターはダンスミュージック/エレクトロニックを主体として、リズムやグルーブ感を重視し、イギリスの都市部のクラブミュージックの文化を反映させようとしている。そしてその中に、UKポップスのアンセミックなフレーズを交え、デビュー作とは相異なる音楽性の側面を示している。しかし、ハンターのボーカルは、モダンな表現の範疇にありながら、粗雑な模造品や複製物に堕すことはなく、生々しく、「生きている」という印象をもたらす。それは感情的な性質を失わず、その中に、ほろ苦さや切なさ、脆弱性といった内面的な側面を内包させているからである。これがダンサンブルなビートを織り交ぜながらも、奇妙な静けさをあわせ持つ理由なのかもしれない。 

 


「Finding Mirrors」

 

 

 

 ダンス・ミュージック/エレクトロニックを主体とした曲調は、その後のアルバムの中間部の重要な核心を担っている。

 

続く、4曲目の「000」において、ネイラ・ハンターはエレクトロニックのトラックに対して、メディエーションというアーティスト独自の語法を用い、新鮮な作風を提示している。もちろん、その中には、トリップ・ホップのアンニュイな感覚、あるいはロンドンのネオソウルに象徴づけられるポップス、ヒップホップ、R&Bのクロスオーバー性を感じ取ることもできる。これらの現代的な音楽のアプローチのなかで、ハンターは90年代のブリストルサウンドにそのルーツが求められる暗鬱さとともに、内側に秘めたセクシャリティを表現し、曲そのものから派手さや華美さとは正反対の奥行きのある精彩味をもつ生命感がかすかに立ち上がる。それらの性質を強化するのが、反復的なビートやシネマティックな音響性を持つパーカッションだ。

 

続く、タイトル曲では、ボーカルパフォーマンスを学習していたことがあるというハンターの経験が生かされている。声そのものをオーケストラの器楽的な表現として解釈し、それを人間の特性という形を通じて「生命の奔流」として表現しようとする、つまり、ヒューマニティーの発露こそがボーカル・アートの本質であると言えるのだが、例えば、アメリカのメレディス・モンクを始めとするボーカルアートの音楽家たちが、ひとしなみにそうであるように、ネイラ・ハンターもみずからの声により自由性に充ちた表現を希求してやまない。メディエーション/ヒーリングミュージックという切り口を介し、ハンターはみずからの創作における可能性を押し広げ、演劇や舞台芸術に近い表現に近づく。しかしそれらは、次なる表現に至ろうとする寸前で踵を返し、音楽という表現の領域に留められ、ジャズ、モダンオーケストラ、ダンスミュージック/エレクトロニックという、それ以前にある不確実な領域で揺れ動きつづける。不確実性というのは、これらの表現は、アーティストにとってまだ完全には耕されておらず、いわば「無知の知」の領域内に存在し、クリエイティビティーの源泉ともなっているからである。

 

さらに「000」では、アーティスト自身のハープの演奏が力強くフィーチャーされていることが分かる。それは、装飾音的な効果という形をとって現れたかと思えば、水の奔流さながらに曲の構造性を形成する場合もあり、ハンター自身のループ/ディレイを施した現代的なサウンドの働きを強める場合もある。終盤部に訪れるハープの演奏は、静謐な印象を携えながら、アンビエントの奥底に途絶えてゆく。まるでみずからの流麗なアルペジオ、グリッサンドによるハープの演奏をサイレントという「無の領域」に帰すかのような巧みな展開を見出すことができる。


中盤で出現したハープのアルペジオは次曲に引き継がれ、続く「Bleed」のモチーフともなっている。聞きやすさのあるヒーリングミュージックやイージーリスニングの音楽のように軽やかなイントロダクションのアルペジオとアンビエントのシークエンスが融合を果たし、神々しさすら感じさせるネイラ・ハンターの美麗な歌声が重なりあう。しかし、それらが決して安っぽい印象にならないのは、フィルターをかけたスネアの導入にあり、リズム・トラックがトリップ・ホップやローファイ・ホップのような別の側面から楽曲に働きかけをしていることにある。

 

そして、ハープの演奏の巧みさは当然のことながら、オーガニックでナチュラルな質感を持つハンターのボーカルは、ミステリアスな領域を越え、ニューエイジ・ミュージックのようなスピリチュアリズムに傾くこともある。これらのオルタネイトな要素は、グライムやダブステップのように変則的なリズムと掛け合わされ、エクスペリメンタルポップという実験音楽の領域に差し掛かる瞬間もある。曲には、ある種の緊張感がもたらされるときもあり、それが現代的なボーカルアート/オペラといった、表現性に特化した格式高い音楽へと昇華される瞬間もある。ただ、この曲でも、それほど堅苦しくならず、聞き手の数だけ開けた解釈が用意されているのは、ネイラ・ハンターが複数の表現を飽くまでポップスとして昇華しようとしているからなのだ。

 

もうひとつ、ボーカル・パフォーマンスという表現形態に加え、ハンターは、教会音楽の聖歌にルーツを持つことも忘れてはならない。「Adorned」では、クラシック的な宗教音楽とゴスペルの中間にある雰囲気が、たえずせめぎ合うようにしている。白人の音楽なのか、それとも黒人の音楽なのか? もしかすると、そのどちらでもあるのか? 規定することの出来ない曖昧で抽象的な領域を彷徨いながら、それらの真実を、自らに対し、時には他者に向けて問いかけるようにハンターは声を紡ぐ。続いて、ジャズの雰囲気を漂わせるオルガンをひとつのポイントとして駆け上り、最終的に20世紀の古典的なクラシック・ジャズの音楽性へと飛躍していく。 

 

 

「Adorned」

 

 

 ネイラ・ハンターの声は、「ニューヨークのため息」とも呼ばれるヘレン・メリルのようなスモーキーな味わいのあるブルースの奥深いおもむきを持つ。彼女は、神聖で清浄な雰囲気を持つハモンド・オルガンの音色に導かれるようにし、哀愁と物憂げの源泉へと迫ろうとする。これはまたアーティストがみずからの生命の本質に迫ろうとする試みにほかならない。そして、曲の途中に導入されるアルト・サックスの遊び心のある音色、アンビエント風の抽象的なシークエンス、そして静かに囁きかけるような思索性に富んだハンターの声により、ポピュラー音楽として荘厳な瞬間を呼び覚ます。昂じるような曲の展開がまったくないにもかかわらず、アーティストの音楽の奥深いバックグラウンドや、その人物的な源泉へと迫ることもできるのだ。

 

一見、デビュー・アルバムから少しだけ遠ざかったように思える音楽性は、その後、限定的な原点回帰を果たす。「Cloudbreath」は、自然の持つ神秘そのものに迫ろうとしているように感じられる。それらはやはりテクノを基調とするエレクトロニックとハープの美麗なグリッサンドによりアブストラクトな表現という形で昇華される。曲の途中からは、ニューエイジ/アンビエントのような音楽の奥行きを増す。それをスイスのヴァイオリン奏者、Paul Giger(パウル・ギーガー)のようなエキゾチズムやアヴァンギャルド性と結びつけることは、さほど難しいことではない。同時に、ミニマリズムの継承者という意外な一面を見出すことも無理体ではない。

 

今作はおそらく、ネイラ・ハンターにとって、本格的なボーカル・デビューとなるものと思われるが、収録曲の中には、ボーカリストとしての深みや円熟味を感じさせるトラックもある。「Garden」では、メディエーション/ヒーリング・ミュージックを、ネオ・ソウルとポピュラーという観点から見つめ直した曲だが、それらはアンビエントに属する抽象的なサウンドスケープと巧みにマッチし、清涼味のある空気感を生み出す。トラック全体を通して、テープ・ディレイを始めとする技巧的な効果を交えつつも、天空の庭を歩くかのような爽やかで開けた感覚があり、前衛的なプロダクションの中にあろうとも、いっかな途切れることがないのが驚きだ。

 

本作の10曲において、ネイラ・ハンターはそれほど内なる感覚をあらわにすることは少ないが、クローズ曲だけは例外である。

 

「Into The Sun」では、アーティストが得意とする、ニューエイジ/スピリチュアリズムのレンズを通して、オーケストラや古典的なジャズの源泉に迫る。それらは、一方の側面から見ると、「美」という得がたい概念の正体でもあるのだが、それらをハートウォーミングな感情表現で包み込もうとしている。この最後の曲に、ビョークのデビュー作『Debut』のような大きなオーラが感じられさえするのは、あながち偶然とは言えまい。ネイラ・ハンターが、世界的なシンガー、アーティストになるための準備は着々と整いはじめているのではないだろうか。偽物ではない、本物の音楽とはいかなるものなのか。その答えは、すべてこのアルバムに示されている。

 


 

85/100


 

Weekend Featured Track 「Into The Sun」

 

 

 

Nailah Hunter(ネイラ・ハンター)の新作アルバム『Lovegaze』はファット・ポッサムから本日発売。アルバムのストリーミングはこちらから。

 



 Wishy

Wishy ©Winspear

 

今週、ご紹介するのは、インディアナ出身の著名なソングライター、ケヴィン・クラウターとニーナ・ピッチカイツによる新バンド、Wishy(ウィッシー)。

 

ウィッシーは、ピッチカイツが2021年にフィラデルフィアから故郷に戻ったとき、インディアナポリスの2人のミュージシャンの音楽的なパートナーシップとして誕生した。ザ・サンデーズやマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのような90年代のオルタナティヴ・バンドへの愛で意気投合した2人は、内省的でグランジなセンスを持つ、渦巻くようなポップ・ロックを独自に作り始めた。


実は、この二人は、ミュージシャンとはまったく別の表情を持つ。ケヴィン・クラウターは音楽教師として生徒にドラムとギターのレッスンをしており、ニーナ・ピッチカイツは裁縫が本業で、バンドの刺繍入りグッズを制作している。

 

2018年の『Toss Up』と2020年の『Full Hand』で中西部のドリーム・ポップの地位を固めるため、クラウターが過去10年を費やしている間、ピッチカイツは自身のインディー・エレクトロ・ポップ・プロジェクト、プッシュ・ポップに没頭し、後に『Wishy』のために作り直される「Spinning」を書いた。バンドを構成するため、ピッチカイツとクラウターはギタリストのディミトリ・モリス、ベーシストのミッチ・コリンズ、ドラマーのコナー・ホストを追加で起用した。


クラウターとピッチカイツは、2022年末から2023年初頭にかけて2度ロサンゼルスを訪れ、デュラン・ジョーンズのツアーの間を縫い、友人でありプロデューサーのベン・ラムスデインと連絡を取り、2人が新たに書き下ろした曲をレコーディングした。陽光降り注ぐカリフォルニアの穏和な気風が存分に発揮され、爽やかでメロディアスなEPに仕上がった。シューゲイザー、ドリームポップ、アルトロックが見事にブレンドされ、天国のような靄に包まれたWishyは、メロディックな耳触りと心揺さぶる情感が濃厚な5曲入りの強力なイントロダクションを提供している。


『Paradise』を通して、バンドはアメリカの孤独と理想主義を嘆き、同時に日常生活にも直結している。国という観念にとらわれず、それは多くの国家に住まう人々にも共通するものである。

 

EPの5曲を通して、ピッチカイツとクラウターは、広大でスクラップなギターコードの構図の中に、愛と自己実現についてのほろ苦い考察を交えている。全体を通して、初期オルタナティヴ・ロックと90年代ジャングル・ポップに同じくらい依拠しているように感じられる。Wishyの音楽は、カタルシスを感じさせつつも、微細な陰鬱なエネルギーによって強調されており、彼らがステージを共にする、Momma、Tanukichanのような同世代のバンドと並べても違和感がない。


Wishyは今年の秋、Tanukichanをサポートするツアーを予定している。バンドはテキサス州オースティンで開催される”LEVITATION”で初のフェスティバル出演を果たす。その後、2024年にWinspearからリリース予定のデビュー・アルバムの完成に目を向けている。今後の活躍が楽しみ。




Wishy 『Paradise』 EP / Winspear

 

 

今年、ニューヨークのレーベル”Winspear”は複数の注目すべきアーティストの新作を送り出した。インディーロックアーティスト、Lutalo(ルタロ)、そして、ニューヨークのポップス界の新星、Daneshevskaya(ダネシェフスカヤ)である。

 

上記のアーティストは共に、『Again』『Long Is A Tunnel』という象徴的なカタログをこのレーベルにもたらし、ウィンスピアの存在感を示すことに一役買った。さらに続いて、インディアナポリスのインディーロックバンド、Wishyがシーンに名乗りをあげようとしている。


バンドは、Jesus and Mary Chain、My Bloody Valentine、昨今のYo La Tengoを想起させる轟音のギターロックに加えて、Tanukicyanのドリーム・ポップ性を兼ね備えている。もちろん、Wishyの生み出す艶やかなプロダクションに、インディーバンドとして注目を集める、Wednesday,Slow Pulp、Daughter、Ratboysのような未知の可能性を捉えたとしても、それは思い違いなどではあるまい。

 

オープニング「Paradise」は、シューゲイザーではお馴染みのアコースティックとエレクトリックのミックスしたギターラインで始まり、その中には、スコットランドのネオアコ/ギター・ポップに象徴される叙情性が漂う。それらの甘いとも心酔的とも取れる音楽的な枠組みに説得力をもたらしているのが、 ケヴィン・クラスターのボーカルだ。


なんの因果か、ケヴィン・クラスターのボーカルはケヴィン・シールズのドイツ時代の80年代後半のドリームポップのアプローチに近い空気感があり、これがノスタルジアを付け加えている。もちろん、男女のツインボーカルで切ない感覚を呼び起こそうという手法についても徹底している。 

 

 

「Paradise」

 

 

 

ケヴィン・シールズからの影響は、ボーカルの歌い方、ギターの音作りだけにとどまらず、シンセのオマージュという点でも共通している。メロトロンを思わせるレトロなシンセのフレーズはMy Bloody Valentineの『Loveless』の作風を踏襲している。一説によると、MBVのケヴィン・シールズは、「Shoegaze」という呼び方に納得していないということであるが、これは、このジャンルがスコットランド/アイルランドのフォーク・ミュージックに端を発するからで、単なるサブジャンルであると考えてもらいたくないがゆえと思われる。しかし少なくとも、My Bloody Valentineのフォロアー数はビートルズに匹敵する。それはつまり、ケヴィン・シールズにみな憧れを抱いているということなのだ。Wishyは、MBVの作風からダンス・ビートを削ぎ落とし、それをコクトー・ツインズのような聞きやすさのあるドリームポップへと昇華している。

 

 

そもそも、リック・ルービンも言うように、音楽ファンとしては、何かに似ているとか、模倣的かというのは、大した難点にはならない。しかし、本作にはオマージュやイミテーションに近いサウンドの中にも、クリアで鮮烈な印象を持つ瞬間が見いだせるのも事実である。結局のところ、新しいバンドやアーティストの何に着目すべきなのかというと、佇まいやサウンドの中に強い輝きがかんじられるのかということである。それは他者に絶対に譲ることのない、同時に対価では売り渡すことの出来ないキャラクター性、その人にしかないスピリットとも言える。

 

二曲目の「Donut」はそのことが顕著に示されている。ドライブ感のあるギターラインに導かれるようにして、魅惑的なバンドアンサンブルが繰り広げられる。ビジネスやベネフィットのためにセッションをやるのか、それとも、子供の時のように純粋な楽しさのあるセッションをやるのか。Wishyは信頼すべきことに、後者のグループに属しており、それはギターラインのダイナミクス、リード・シンセの力強さ、表層的なサウンドを力強くバックで支えるドラムに表れている。


彼らはインディアナポリスのバンドというが、曲全体にはかすかにアーバンな雰囲気が漂い、ギターラインの絶妙なトーンの揺らぎは、幻惑と混沌の最中へとリスナーを誘い、しばしそれらの陶酔的なシューゲイズ・サウンドの渦中に留めておくことを約束する。稀に、ギターラインとVoxのシンセサイザーは、ツインリード・ギターに比する熱狂性を帯びる瞬間もある。バンドは、トーンの変容や揺らめきを駆使して、アンビバレントな領域の中にサイケデリックな印象性を生み出し、My Bloody Valentineのイミテーションやオマージュ以上の何かを示して見せる。

 

『Paradise』の冒頭は、80、90年代のオルタナティブ・ロックやシューゲイザーの古典的なスタイルを中心にし、グランジに象徴されるパンキッシュな音楽が展開される。続いて、三曲目「Spinning」ではシューゲイザーの元祖とも言えるドリーム・ポップとディスコ・サウンドの融合を図る。

 

The Cure、The Jesus And Mary Chainといったジャンルの先駆者の音楽性をしたたかに踏襲し、それをダンサンブルなビートの枠組みに収めようとしている。反復的なビートは、Underworld、New Orderのテクノの範疇にあるが、幻想的なメロディーを付加されると、MTV、Top Of The Popsの時代のシンセ・ポップに近い曲へと変化していき、最終的にカルチャー・クラブやデュラン・デュランを思わせる軽やかなポピュラー・ミュージックへ変遷を辿っていく。軽薄なのではなく、親しみやすい。上記の音楽をリアルタイムで体験したかどうかに関わらず、この曲の中にあるミラーボール・ディスコへの敬愛と愛着は、リスナーに一定のノスタルジアを与える。


 

Wishyは、シューゲイズ、ドリーム・ポップ、そしてディスコ・サウンドや90年代のテクノからの引用や影響を交えながら、さらに多角的な音楽性を敷衍していく。それは例えるなら、ただ一つの入口から無数の可能性へと向けて、足取りをゆっくりと進めていくようなものである。


「Blank Time」はリミックスのような性質を持つ軽妙なトラック。The Doobie Brothersのファンク、ロック、R&Bに根ざしたウェストコースト・サウンドを現代的なインディーロックのトラックに再構築し、そのトラックに対して、シンセ・ポップやドリーム・ポップのボーカルを付加している。特に、現代のオルタナティブロックでは、Alex G、Far Caspian、Wilcoの作風に見受けられるように、ミュージック・コンクレートをインディーロックという観点から解釈した曲が増えていて、今後の主流になってきそうな気配もある。つまり、ギター、ベース、ドラムなどを先に録音し、ミックス時に、原型とは別のタイプの音楽へと組み直し、その上に複数の楽器やボーカルをレコーディングし、別の音楽に再構築してゆく「コラージュの手法」である。


『Paradise』はシンプルなロックソング「Too Ture」で締めくくられる。Third Eye Blindを始めとする、2000年前後のエモ/インディーロックを基調とする新旧の感覚を織り交ぜた音楽は、今まさに多数のファンに熱望されるスタイルなのだ。今後、EPがフルレングスという形に変わった時、音楽的な広がりがどう示されるかに注目すべし。クローズ曲には、エモやスロウコアの雰囲気が漂う。 


 



80/100

 

 

「Spinning」

 


Wishyの新作EP『Paradise』 はWinspearより本日発売。デジタルストリーミング/ご購入はこちら




ドリームポップ名盤ガイドはこちらより。さらにシューゲイザーリバイバルについてはこちらをお読み下さい。My Bloody Valentineのドイツ時代からの系譜を追ったディスカバリー記事はこちら


Weekly Music Feature

 

-Akira Kosemura(小瀬村晶) 

 


Kosemura Akira

 

ニューアルバム『The Two of Us」は国内外で高い評価を受けるピアニスト/作曲家の小瀬村晶が、気鋭のファッション・ブランドTAKAHIROMIYASHITATheSoloist.とコラボレーションした注目作。


小瀬村は最もストリーミングで再生されているクラシック・アーティストの1人で、日本のマックス・リヒターと称するべき。ジャイルズ・ピーターソンや大手メディアから注目を集め、Pitchforkから「飽きることの無い彼の旋律は、果てしなく他の音楽家と一線を画するものだ」と評されています。


自身の作品のみならず、カンヌ国際映画祭正式出品作品『朝が来る』(監督:河瀨直美)や、米国の人気TVドラマ『Love Is』など、国内外で数々の著名な映画、ドラマ、ゲーム、CM作品の音楽を担当するなど国内外で活躍を続ける稀有なアーティストで、その才能はデヴェンドラ・バンハートやジャイルス・ピーターソン、M83といった錚々たるアーティストからも熱烈な支持を集めている。デッカ・レコードからのアルバム『SEASONS』や、映画『ラーゲリより愛をこめて』、『桜色の風が咲く』の音楽などでも話題を呼んだ」


本作は、小瀬村と深い親交を持つデザイナーである宮下貴裕が手掛けるファッションブランド、TAKAHIROMIYASHITATheSoloist.とのコラボレーション・アルバム。2021年と2023年に行われたコレクション用に小瀬村が書き下ろした8曲+インストゥルメンタル2曲がコンパイルされている。Vogue誌などからのコレクションを含め、絶賛を集めた楽曲の初商品化。一部楽曲ではイギリスの若手シンガー・ソングライターであるClara Mann(クララ・マン)をフィーチャーするなど、新たな試みも見せた注目の内容。アルバムのアートワークについても宮下が担当しています。

 


『The Two of Us』   Schole/Universal Music

The Two Of Us Front Cover Photo: ©︎TAKAHIROMIYASHITATheSoloist.


Scholeのレーベルオーナー/ソロミュージシャンとしてポスト・クラシカル/モダン・クラシカル、エレクトロニカの日本国内での普及に多大な貢献を果たしてきた小瀬村晶(Akira Kosemura)の最新作は、彼のカタログの中でも随一の作品で、記念碑的なアルバムが誕生したと言えるでしょう。

 

今回のアルバム 『The Two of Us』には、イギリスの注目の若手シンガーソングライター、Clara Mann(クララ・マン)、及び、現地のコーラス・グループが参加しており、ソロアーティストのポップネスの範疇にある曲とは異なり、メディエーションに近い形でこのアルバムに貢献を果たしています。アルバムには新曲に加え、2022年のEP「pause」の楽曲が再録されている。全体的に聞いてみても、聴き応えたっぷりのポスト・クラシカル/エレクトロニカ作品になっていることが分かります。そして、これまでプロデューサー、映画、ゲーム音楽と多岐にわたる分野で活躍してきた日本人音楽家にとって、これまでの制作経験を総動員させたことがうかがえます。

 

従来の活動を通じて、基本的にはピアノを中心としてポストクラシカル/モダンクラシカルを制作してきたアーティストですが、今回の作品ではストリングスの演奏を交え、ドラスティックな転換を図っています。

 

現在、このジャンルの音楽を見るに、マックス・リヒター、オーラヴル・アルナルズ、ニルス・フラームといったアーティストが中心となっていますが、弦楽の格式高いハーモニーについては比肩するといえるでしょう。そして、Scholeのレーベルのモットーである日々の中にやすらぎをもたらすというコンセプトも、このアルバムにはっきりと読み取ることが出来るはずです。

 

Ⅰ「The Two Of Us(feat. Clara Mann)」は、イントロでは、協和音と不協和音の合間を揺らめくようにして、複数のストリングの感情的なハーモニーが紡がれます。弦楽器とピアノの合奏という形については、2010年代からアーティストがライブで取り組んでいた形です。ストリングスの抑揚が高まるにつれ、アーティストの最も得意とするピアノの演奏が加わり、そしてミステリアスな響きを持つクララ・マン(Clara Mann)のボーカルが参加すると、一大的なハーモニーが形成される。メディエーションの響きを持つマンのボーカルは意外性がありますが、さらに映画的な音響効果を交え、パーカションを追加し、このトラックはダイナミックな変遷を辿っています。

 

そのなかに、ピアノ曲とは別のもうひとつのアーティストの代名詞であるエレクトロニカのマテリアルを散りばめることで、曲は深みと奥行きを兼ね備えた音響世界を構築していきます。弦楽器のオーケストレーションは、マックス・リヒターの管弦楽の語法に則し、ミニマル音楽の技法を駆使することにより、美麗で親しみやすい効果を及ぼしている。アーティストの従来の曲の中で最も大胆であり、そしてダイナミックであり、そして美麗なひとときを味わえます。 

 

 

 「The Two Of Us (Feat.Clara Mann)」

 

 

Ⅱ「Lasting Memories」は、アーティストがこれまで最も重点を置いてきたミニマル音楽に根ざしたポスト・クラシカル/モダン・クラシカルの範疇にあるピアノ曲です。 しかしながら、このレーベルの最初期作品を知るリスナーにとっては、この曲を聴くにつけ、レーベルオーナーとして、あるいは、ソロアーティストとしての原点回帰のような意味合いを思わせるものがあります。

 

曲そのものは、これまでアーティストがソロ作品や映画音楽で取り組んできたドイツ・ロマン派の作風を彷彿とさせる「叙情的なピアノ」の作品の範疇に属しています。しかし、十年前と同じ形式を選んだからと言っても、曲の雰囲気は2010年代のものとは異なっていることが分かる。ピアノのハンマーの音をリバーブ的に活用した音作りに関しては、アイスランドのオーラブル・アルナルズの系譜にありますが、一方、曲の中には以前よりも、瞑想性、内的な静けさ、感情性を内包させています。さらに、アコースティック・ピアノの演奏のサウンド・プロダクションに関しては、リヒターの作品と同様にクラシックの格式高さと気品に満ちあふれているのです。夕べの空をながれていく美しい雲を眺めるかのようなノスタルジックな気風を反映されています。

 

Ⅲ「Empty Lake(feat. Clara Mann」では再び、イギリスのシンガーをゲストに迎え、モダンクラシカルの作風に舵をとる。ミニマリズム、クラシックという、現代音楽、古典音楽の新旧の要素を兼ね備えた形式は、この曲の土台を形成する水の揺らめきのように潤いあるリズムと旋律の流れを形成しており、マンのボーカルは、オープニングトラックと同様、メディエーション音楽の要素をもたらしています。しかし、マンの複数のボーカルの多重録音は、この曲にクラシカルとは別の米国の人気シンガーソングライター、ラナ・デル・レイ(Lana Del Rey)が最新作「Did You Know~?」でもたらした「映画音楽におけるポップネス」の意義を与え、そしてクラシカルにとどまらず、ポピュラーミュージックのファンやリスナーにも親しめる内容としている。

 

音楽形式そのものは、マックス・リヒターが志向する音楽性とそれほど乖離しているわけではないけれど、その中にボーカルトラックとしてのポピュラー性を付与していることに注目です。やがて曲は、ストリングスの精妙なハーモニーを交え、クララ・マンと小瀬村晶自身によるピアノと複雑に溶け込むようにし、徐々に構造的なハーモニーを形作っていきます。それはピアノのミニマリズムに属する伴奏を通じ、抑揚が引き上げられていき、祈りにも近いメディエーションの範疇にあるマンのボーカルが、あるポイントで、最も美麗な瞬間を形成する。当初は複数のパートとして分離していたように思えたものが、ワンネスに近づき、そしてその雰囲気を補強するような形で、ストリングのスタッカートの短いパッセージが駆け抜けていきます。

 

Ⅳ「Luminous」は、イギリスのコーラス・グループが参加した作品と思われ、教会のミサの典礼で歌われるような賛美歌の精妙な空気感が重視されている。宗教音楽やクワイアの形式に根ざした曲は、これまでアーティストがそれほど多くは取り組んできた印象がないので、旧来のファンとしては、新鮮なイメージを覚えるかもしれません。しかし、映画音楽とクラシックの中間にあるこのクワイアの曲は、アンビエント/ドローンに近い実験音楽の要素を上手く散りばめることで、表面的な印象をより強化し、実際に美麗なイメージをもたらしています。曲の後半では、クワイアとストリングスがより高らかな領域へと近づく瞬間を思わせ、時計の針のサンプリングを加えることで、美しい感情性の中にある時の流れを捉えようとしています。

 

以後、2022年のEP「Pause」に収録されていた4曲が続いています。「ⅵ(almost equal to)ⅸ)はゲーム音楽に近いエレクトロニカ、続く「elbis.rebverri」は、マックス・リヒターの「Blue Notebook』の時代の作風、オーラブル・アルナルズのピアノ曲、アイスランドのアイディス・イーヴェンセン(Eydis Evensen)のミステリアスなポスト・クラシカルの作風に転じています。

 

Ⅳ「lanrete」では、今はなき坂本龍一の代表的なピアノ曲を彷彿とさせる寂しさ、悲しみ、そして水たまりの上に雨滴が穏やかに降り注ぐかのようなピクチャレスクな瞬間性を捉えた親しみやすいピアノ曲へと転じています。

 

さらにそれに続く、Ⅴ曲目「ⅵ(almost equal to)ⅸ」)では、原曲のエレクトロニカ風の楽曲から一転して、アンビエントを基調としたポスト・クラシカル/モダン・クラシカルのディレクションのピアノ曲のアレンジへと移行します。上記の楽曲は、任天堂のSwithのゲームに楽曲提供した経験や、映画音楽への楽曲提供、それに加えて、ソロアーティストとしての潤沢な経験が反映されているので、2021年から2023年のアーティストの軌跡を捉えることが出来るはずです。

 

 

 「ⅵ(almost equal to)ⅸ」)

 

 

 

アルバムのオープニング曲のインスト・バージョンである Ⅸ「The Two of Us」は、一曲目よりもどのように旋律や抑揚が上昇していくのか、そのプロセスをさらに明瞭に捉えることが出来ます。当初のストリングスのハーモニーから、ピアノの演奏がミニマリズム的な構造を綿密に作り上げていき、2つ目のストリングスのレガート、そして、シンセサイザーの演奏を付加することにより、最終的に一大的な美麗な瞬間が形作られていきます。本作の最後を飾るのは、Ⅲ「Empty Lake」のインスト・バージョンであり、この曲もまた、クララ・マンが参加したボーカル曲とは相異なる感覚が漂い、ピアノの重奏曲による形式が原曲よりも明瞭となっています。ピアノ単体の曲として聴いても力強さがあり、叙情的な雰囲気を伴っていることがわかる。

 

 

「Empty Lake- Instrumental」

 

 

 

92/100

 

 

Akira Kosemura(小瀬村晶)の『The Two Of Us」は、日本国内では、"Schole Inc./Universal Music"より発売です。海外では"Decca"より本日から発売中。公式ストアでのアルバムのご購入はこちらより。

 

また、以前、Scholeの名盤特集を掲載しています。興味のある方はこちらの記事も合わせてチェックしてみてください。