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60年代、及び、70年代のアメリカン・ロックにも様々なジャンル分けがある。CSN&Y、イーグルスに象徴されるカルフォルニアを中心とするウェストコースト・サウンド、オールマン・ブラザーズに代表される南部のブルースに根ざしたサザン・ロック、ニューヨーク、デトロイトを中心に分布するイーストコーストロックに分かたれる。特に、西海岸と東海岸のジャンルの棲み分けは、現在のヒップホップでも行われていることからも分かる通り、音の質感が全然異なることを示唆している。兼ねてからロサンゼルスは、大手レーベルが本拠を構え、ガンズ・アンド・ローゼズを輩出したトルバドールなどオーディション制度を敷いたライブハウスが点在していたこともあり、米国の音楽産業の一大拠点として、その歴史を現代に至るまで綿々と紡いでいる。


当時、最もカルフォルニアで人気を博したバンドといえば、「Hotel California」を発表したイーグルスであることは皆さんもご承知のはずである。しかしながら、のちのLAロックという観点から見て、また当地のロックのパイオニアとしてロック詩人、ジム・モリソン擁するドアーズを避けて通ることは出来ないのではないだろうか。ジム・モリソンといえば、ヘンドリックスやコバーンと同様に、俗称、27Clubとして知られている。今回は、このバンドのバックグランドに関して取り上げていこうと思います。

 

 

1967年、モリソン、マンザレク、デンズモア、クリーガーによって結成されたドアーズ。本を正せば、詩人、ウィリアム・ブレイクの「天国と地獄の結婚」の「忘れがたい幻想」のなかにある一節、

 

近くの扉が拭い 清められるとき 万物は人の目のありのままに 無限に見える

 

に因んでいるという。そして、オルダス・ハックスレーは、この一節をタイトルに使用した「知覚の扉」を発表した。ドアーズは、この一節に因んで命名されたというのだ。


いわば、本来は粗野な印象のあったロック・ミュージックを知的な感覚と、そしてサイケデリアと結びつけるのがドアーズの役目でもあった。 そして、ドアーズは結成から四年後のモリソンの死に至るまで、濃密なウェスト・コースト・ロックの傑作アルバムを発表した。「ロックスターが燃え尽きる」という表面的なイメージは、ブライアン・ジョーンズ、ヘンドリックスやコバーンの影響も大きいが、米国のロック・カルチャーの俯瞰すると、ジム・モリスンの存在も見過ごすことが出来ないように思える。

 

ただ、ドアーズがウェスト・コーストのバンドであるといっても、その音楽は一括りには出来ないものがある。カルフォルニア州は縦長に分布し、 また、サンフランシスコとロザンゼルスという二大都市が連なっているが、その2つの都市の両端は、相当離れている。そして、両都市は同州に位置するものの、文化的な性質がやや異なると言っても過言ではない。ドアーズもまた同地のグループとは異なる性質を持っている。


そもそも、ウェスト・コースト・サウンドというのは、1965年にオープンした、フィルモア・オーディオトリアムを拠点に活躍したグループのことを示唆している。ただ、これらのバックグランドにも、ロサンゼルスの大規模のレコード産業と、サンフランシスコの中規模のレコード産業には性質の違いがあり、それぞれ押し出す音楽も異なるものだったという。つまり、無数の性質を持つ音楽産業のバックグランドが、この2つの都市には構築されて、のちの時代の音楽産業の発展に貢献していくための布石を、60年代後半に打ち立てようとしていたと見るのが妥当かもしれない。

 

ザ・ドアーズの時代も同様である。60年代後半のロサンゼルスには、サンフランシスコとは雰囲気の異なるロック産業が確立されつつあった。ドアーズはUCLAで結成され、この学校のフランチャイズを特色として台頭した。一説によると、同時期にUCLA(カルフォルニア州立大学)では、ヘルマン・ヘッセの『荒野のオオカミ』が学生の間で親しまれ、物質的な裕福さとは別の精神性に根ざした豊かさを求める動きが大きなカウンター・カルチャーを形成した。


この動きはサンフランシスコと連動し、サイケデリック・ロックというウェイブを形成するにいたったのであるが、レノンが標榜していた「ラブ・&ピース」の考えと同調し、コミューンのような共同体を構築していった。そういった時代、モリソン擁するドアーズも、この動向を賢しく読み、西海岸の若者のカルチャーを巧みに音楽性に取り入れた。一つ指摘しておきたいのは、ドアーズは同年代に活躍したグレイトフル・デッドを始めとするサイケ・ロックのグループとは明らかに一線を画す存在である。


一説では、サンフランシスコのグループは、オールマン・ブラザーズやジョニー・ウィンター等のサザン・ロックと親和性があり、ブルースとアメリカーナを融合させた渋い音楽に取り組んでいた。対して、ロサンゼルスのグループは、明らかにジャズの影響をロックミュージックの中に才気煥発に取り入れようとしていた。これはたとえば、The Stoogesが「LA Blues」でイーストコーストとLAの文化性をつなげようとしたように、他地域のアヴァンギャルド・ジャズをどのように自分たちの音楽の中に取り入れるのかというのを主眼に置いていた。


サンフランシスコのライブハウスのフィルモア・オーディオトリアムの経営者であり、世界的なイベンター、ビル・グラハムは、当初、ドアーズがLAのバンドいうことで、出演依頼を渋ったという逸話も残っている。ここにシスコとロサンゼルスのライバル関係を見て取る事もできるはずである。

 

 


 

さて、ザ・ドアーズがデビュー・アルバム 『The Doors』(邦題は「ハートに火をつけて」)を発表したのは1967年のことだった。後には「ロック文学」とも称されるように、革新的で難解なモリソンの現代詩を特徴とし、扇動的な面と瞑想的な面を併せ持つ独自のロックサウンドを確立した。

 

デビューアルバム発表当時、モリソンの歌詞そのものは、評論家の多くに「つかみどころがない」と評されたという。


デビュー・シングル「Light My Fire」は、ドアーズの代表曲でもあり、ビルボードチャートの一位を記録し、大ヒットした。その後も、「People Are Strange」、「Hello I Love You」、「Touch Me」といったヒットシングルを次々連発した。ドアーズのブレイクの要因は、ヒット・シングルがあったことも大きいが、時代的な背景も味方した。

 

当時、米国では、ベトナム戦争が勃発し、反戦的な動きがボブ・ディランを中心とするウェイヴが若者の間に沸き起こったが、ドアーズはそういった左翼的なグループの一角として見なされることになった。しかし、反体制的、左翼的な印象は、ライヴステージでの過激なパフォーマンスによって付与されたに過ぎない。ドアーズは、確かに扇動的な性質も持ち合わせていたが、 同時にジェントリーな性質も持ち合わせていたことは、ぜひとも付記しておくべきだろう。

 

ドアーズの名を一躍全国区にした理由は、デビュー・アルバムとしての真新しさ、オルガンをフィーチャーした新鮮さ、そして、モリソンの悪魔的なボーカル、センセーショナル性に満ち溢れた歌詞にある。ベトナム戦争時代の若者は、少なくとも、閉塞した時代感覚とは別の開放やタブーへの挑戦を待ち望んだ。折よく登場したドアーズは、若者の期待に応えるべき素質を具えていた。同年代のデトロイトのMC5と同じように、タブーへの挑戦を厭わなかった。特にデビュー・アルバムの最後に収録されている「The End」は今なお鮮烈な衝撃を残してやまない。 


 

 

「The End」の中のリリックでは、キリスト教のタブーが歌われており、ギリシャ神話の「エディプス・コンプレックス」のテーマが現代詩として織り交ぜられているとの指摘もあるようだ。


歌詞では、ジークムント・フロイトが提唱する「リビドー」の概念性が織り込まれ、人間の性の欲求が赤裸々に歌われている。エンディング曲「The End」は、究極的に言えば、セックスに対する願望が示唆され、人間の根本的なあり方が問われている。宗教史、あるいは人類史の根本を形成するものは、文化性や倫理観により否定された性なのであり、その根本的な性のあり方を否定せず、あるがままに捉えようという考えがモリソンの念頭にはあったかもしれない。性の概念の否定や嫌悪というのは、近代文明がもたらした悪弊ではないのか、と。その意味を敷衍して考えると、当代の奔放なカウンター・カルチャーは、そういった考えを元にしていた可能性もある。



これらのモリソンの「リビドー」をテーマに縁取った考えは、単なる概念性の中にとどまらずに、現実的な局面において、過激な様相を呈する場合もあった。それは彼のステージパフォーマンスにも表れた。しかし、性的なものへの欲求は、ドアーズだけにかぎらず、当時のウェスト・コーストのグループ全体の一貫したテーマであったという。つまり、性と道徳、規律、制約、抑圧といった概念に象徴される、社会的なモラル全般に対する疑念が、60年代後半のウェストコーストを形成する一連のグループの考えには、したたかに存在し、時にそれはタブーへの挑戦に結びつくこともあった。その一環として、現代のパンク/ラップ・アーティストのように、モリソンは「Fuck」というワードを多用した。今では曲で普通に使われることもあるが、この言葉は当時、「フォー・レター・ワード」と見なされていた。放送はおろか、雑誌等でも使用を固く禁じられていた。”Fuck”を使用した雑誌社が発禁処分となった事例もあったのだ。


それらの禁忌に対する挑戦、言葉の自由性や表現方法の獲得は、モリソンの人生に付きまとった。特に、1968年、彼は、ニューヘイブンの公演中にわいせつ物陳列罪で逮捕、その後、裁判沙汰に巻き込まれた。しかし、モリソンは、後日、この事件に関して次のように供述している。「僕一人が、あのような行為をしたから逮捕された。でも、もし、観客の皆が同じ行為をしていたら、警察は逮捕しなかったかもしれない」


ここには、扇動的な意味も含まれているはずだが、さらにモリソンのマジョリティーとマイノリティーへの考えも織り込まれている。つまり多数派と少数派という概念により、法の公平性が歪められる危険性があるのではないかということである。その証として彼は、この発言を単なる当てつけで行ったのではなかった。当時の西海岸のヒッピーカルチャーの中で、コンサートホール内は、無法状態であることも珍しくはなく、薬物関連の無法は、警官が見てみぬふりをしていた事例もあったというのだから。

 

さらに、ジム・モリスンのスキャンダラスなイメージは、例えば、イギー・ポップやオズボーンと同じように、こういった氷山の一角に当たる出来事を取り上げ、それをゴシップ的な興味として示したものに過ぎない。上記二人のアーティストと同様に、実際は知性に根ざした文学性を発揮した詩を書くことに関しては人後に落ちないシンガーである。文学の才覚を駆使することにより、表現方法や言葉の持つ可能性をいかに広げていくかという、モリソンのタブーへの挑戦。それは、考えようによっては、現代のロック・ミュージックの素地を形成している。


デビュー作から4年を経て、『L.A Woman』を発表したドアーズの快進撃は止まることを知らなかった。しかし、人気絶頂の最中にあった、1971年7月3日、ジム・モリソンは、パリのアパートにあるバスタブの中で死去しているのが発見された。死亡時、パリ警察は検死を行っていないというのが通説であり、一般的には、薬物乱用が死の原因であるとされている。



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『Nevermind』の成功の後にコバーンは何を求めたのか




「より大衆に嫌われるレコードを作ろうと思ったんだ」カート・コバーンは、『Nevermind』の次の作品『In Utero』のリリースに関して率直に語っている。そもそも、Melvinsのオーディションを受けたシアトルのシーンに関わっていた高校生時代からコバーンの志すサウンドは、若干の変更はあるが、それほど大きく変わってはいない。『Nevermind』で大きな成功を手中に収めた後、新しい作品の制作に着手しないニルヴァーナにゲフィン・レコードは業を煮やし、コンピレーション・アルバム『Incesticide』でなんとか空白期間を埋めようとした。その中で、「Dive」「Aero Zeppelin」といったバンドの隠れた代表作もギリギリのところで世に送り出している。

 

ある人は、『In Utero』に関して、ニルヴァーナの『Bleach』時代の原始的なシアトル・サウンドを最も表現したアルバムと考えるかもしれない。また、ある人は、『Nevermind』のような芸術的な高みに達することができず、制作上の困難から苦境に立たされた賛否両論のアルバムだったと考える人もいるだろう。しかしながら、このアルバムは、グランジというジャンルの決定的な音楽性を内包させており、その中にはダークなポップ性もある。シングル曲のMVを見ても分かる通り、カート・コバーンの内面が赤裸々に重々しい音楽としてアウトプットされたアルバムと称せるかもしれない。





三作目のアルバムが発売されたのは1993年9月のこと、カート・コバーンは翌年4月に自ら命を絶った。そのため、このアルバムは、しばしばコバーンの自殺に関連して様々な形で解釈され、説明されてきたことは多くの人に知られている。


『In Utero』は彼らが間違いなく最高のバンドであった時期にレコーディングされた。前作『Nevermind』のラジオ・フレンドリーなヒットは、バンドにメインストリームでの大きな成功をもたらし、ビルボード200チャートで首位を獲得し、グランジをアンダーグラウンドから一般大衆の意識へと押し上げた。もちろん、彼らは当時の大スター、マイケル・ジャクソンを押しのけてトップの座に上り詰めたのだった。


DIY、反企業、本物志向のパンク・ムーブメント、Melvins、Green River、Mother Love Boneを始めとするシアトル・シーンに根ざして活動してきたバンドにとって、この報酬はむしろ足かせとなった。コバーンは、心の内面に満ちる芸術的誠実さと商業的成功の合間で葛藤を抱えることになった。巨大な名声を嫌悪し、私生活へのメディアの介入に激怒したカートは、あらゆる方面からプレッシャーをかけられて、逃げ場がないような状況に陥ったのだ。


アバディーンで歯科助手を務めていた時代、その給料から制作費をひねり出した実質的なデビュー・アルバム『Bleach』の時代から、カート・コバーンはDIYの活動スタイルを堅持し、また、そのことを誇りに考えてきた経緯があったが、メジャー・レーベルとの契約、そして、『Nevermind』のヒットの後、彼は実際のところ、シアトルのインディー・シーンのバンドに対し、決まりの悪さを感じていたという逸話もある。期せずして一夜にしてメインストリームに押し上げられたため、それらのインディーズ・バンドとの良好な関係を以後、綿密に構築していくことができなくなっていた。

 

それまではDIYの急進的なバンドとしてアバディーンを中心とするシーンで活躍してきたコバーンは、多分、売れることに関して戸惑いを覚えたのではなかった。自分の立場が変わり、親密なグランジ・シーンを築き上げてきた地元のバンドとの関係が立ち行かなくなったことが、どうにも収まりがつかなかった。それがつまり、94年の決定的な破綻をもたらし、「ロックスターの教科書があればよかった」という言葉を残す原因となったのである。彼は、音楽性と商業性の狭間で思い悩み、答えを導きだすことが出来ずにいたのだ。

 

『In Utero』を『Nevermind』の成功の延長線上にあると考えることは不可欠である。コバーンは、バンドのセカンド・アルバムがあまりにも商業的すぎると感じ、「キャンディ・アス」とさえ表現し、アクセシビリティと、ネヴァー・マインドのラジオでの大々的なプレイをきっかけに制作に着手しはじめた。当時、カート・コバーンは、「ジョック、人種差別主義者、同性愛嫌悪者に憤慨していた」と語っている。だから、歌詞の中には「神様はゲイ」という赤裸々でエクストリームな表現も登場することになった。サード・アルバムで、前作の成功の事例を繰り返すことをコバーンは良しとせず、バンドのデビュー作『Bleach』におけるアグレッシヴなサウンドに立ち返りたかったとも考えられる。その証拠として、アルバムに収録されている『Tourette's』には、『Nagative Creep』時代のメタルとパンクの融合に加え、スラッシュ・メタルのようなソリッドなリフを突き出したスピーディーなチューンが生み出された。


カート・コバーンは、内面のダークでサイケデリックな側面を赤裸々に表現し、芸術的な信憑性を求めようとした。以前よりもソリッドなギターのプロダクションを求めていたのかもしれない。そこで、以前、Big Blackのフェアウェル・ツアーで一緒に共演したUSインディーのプロデューサーの大御所、スティーヴ・アルビニに白羽の矢を立てた。

 

それ以前には、Slintのアルバム『Tweedz』のエンジニアとして知られ、後にロバート・プラントのアルバムのプロデューサーとして名を馳せるスティーヴ・アルビニは、1990年代中頃、アメリカのオルタナティブ・シーンの寵児として見なされていた。当時、彼は、過激でアグレッシヴなサウンドを作り出すことで知られ、インディー・ロックの最高峰のレコードを作り出すための資質を持っていた。この時、彼は別名でミネアポリスのスタジオを予約したという。その中には、メディアにアルバム制作の噂を嗅ぎつけられないように工夫を凝らす必要があった。

 



・スティーヴ・アルビニとの協力 ミネアポリスでの録音




「噂が広まらないようにする必要があった」とスティーヴ・アルビニは、NMEのインタビューで語った。


「インディペンデントなレコーディング・スタジオで、そこで働いている人は少人数だった。彼らに秘密を託したくなかったから、自分の名義で"サイモン・リッチー・バンド"という偽名でスタジオを予約することにした」「実は、サイモン・リッチーというのは、シド・ヴィシャスの本名なんだ。もちろん、スタジオのオーナーでさえ、ニルヴァーナが来るとは知らなかったのさ」

 

しかし、当時のバンドの知名度とは裏腹に、プロデューサーはセッションは比較的スタンダードなものだったと主張した。「セッションには変わった点は何もなかった」と彼は付け加えた。


「つまり、彼らが非常に有名であることを除けば……。そしてファンで溢れかえらないように、できる限り隠しておく必要があった。それが唯一、奇妙なことだったんだよ」


「”In Utero”のセッションのかなり前に、Big Blackがお別れツアーを行った時、最終公演はシアトルの工業地帯で行われた」とアルビニは回想している。「奇妙な建物で、その場しのぎのステージでしかなかった。でも、クールなライブで、最後に機材を全部壊した。その後、ある青年がステージからギターの一部を取っていい、と聞いてきて、私が『良いよ、もうゴミなんだし』と言ったのをよく覚えているんだ。その先、どうなったかは想像がつきますよね...」


アルビニは自らスタジオを選び、Nirvanaをミネソタ/ミネアポリスのパチダーム・スタジオに連れ出すことに決めた。音楽ビジネスに対する実直なアプローチで知られる彼は、バンドの印税を軽減することを拒否し、ビジネスの慣習を "倫理的に容認できない"と表現した。その代わり、彼は一律100,000ポンドで仕事を受けた。当初、バンドとアルビニはアルバムを完成させる期限を2週間に設定したが、全レコーディングは6日以内に終了、最初のミックスはわずか5日で完了した。


アルバムをめぐる最大の議論の一つは、セカンドアルバムとは似ても似つかないプロダクションの方向性である。アルビニが好んだレコーディング・スタイルは、可能な限り多くのバンドを一緒にライブ演奏させ、時折、ドラムを別録りしたり、ボーカルやギターのトラックを追加することだった。

 

これによって2つの画期的なサウンドが生み出されることになった。第一点は、コバーンのヴォーカルを楽器の上に置くのではなしに、ミックスの中に没入させたこと。第二点は、デイヴ・グロールのアグレッシブなドラムがさらにパワフルになったことである。これは、アルビニがグロールのドラム・キットを30本以上のマイクで囲み、スタジオのキッチンでドラムを録音し自然なリバーブをかけたことや、グロールの見事なドラムの演奏の貢献によるところが大きかった。コバーンの歌詞が『イン・ユーテロ』分析の焦点になることが多い一方、グロールのドラミングは見落とされがちだが、この10年間で最も優れた演奏のひとつに数えられるかもしれない。


録音を終えた後、カート・コバーンは完成したアルバムをDGCレーベルの重役に聴かせた。『ネヴァーマインド』的なヒット曲を渇望していた会社幹部は、失望の色を露わにした。同時に、その反応は、アルバムの成功に思いを巡らせながら、自分の理想を堅持し続け、自分たちの信じる音楽をリリースすることを想定していたカート・コバーンに大きな葛藤を抱えさせる要因となった。

 

結局、レーベルとバンドの議論の末、折衷案が出される。アルバムのシングルは、カレッジ・ロックの雄、R.E.Mのプロデューサー、スコット・リットに渡され、ラジオ向きのスタイルにリミックスされた。スティーヴ・アルビニは当初、マスターをレーベル側に渡すことを拒否していたのだった。



・『In Utero』の発売後 アルバムの歌詞をめぐるスキャンダラスな論争

 


 

諸般の問題が立ちはだかった末、リリースされた『In Utero』は、思いのほか、多くのファンに温かく迎えられることになった。しかし、このアルバムに収録された「Rape Me」を巡ってセンセーショナルな論争が沸き起こった。この曲について、カート・コバーンは、SPINに「明確な反レイプ・ソングである」と語っていて、後にニルヴァーナの伝記を記したマイケル・アゼラット氏は、「コバーンのメディアに対する嫌悪感が示されている」と指摘している。しかしながら、世間の反応と視線は、表向きの過激さやセンセーション性に向けられた。その結果、ウォルマート、Kマートは、曲名を変更するまで販売の拒否を表明した。にもかかわらず、このアルバムは飛ぶように売れた。

 

翌年の4月8日、コバーンがシアトルの自宅で死亡しているのが発見された。警察当局は、ガン・ショットによる自殺と断定したことは周知の通りである。このことは、アルバムの解釈の仕方を決定的に変えたのである。多くのファンや批評家は、アルバムの歌詞やテーマは、コバーンの死の予兆だったのではないかと表立って主張するようになった。このアルバムは、混乱し窮地に立たされた彼の内面の反映であり、以後のドラッグ常習における破滅的な彼の人生の結末の予兆ともなっている。

 

しかし、別の側面から見ると、「死の影に満ちたアルバム」という考えは、単なる後付けでしかなく、歴史修正主義、あるいは印象の補正に過ぎない事を示唆している。憂鬱と死に焦点を当てた『Pennyroyal Tea』の歌詞は、『In Utero』リリースの3年前、1990年の時点で書かれていたし、同様に、ニルヴァーナ・ファンのお気に入りの曲のひとつであり、来るべき自死の予兆であったとされる『All Apologies』も1990年に書かれていたのだ。


ただ、ニルヴァーナの最後のアルバムがレコーディング中のカート・コバーンの精神的、感情的な状態を語っていないとか、コバーンが自ら命を絶つ兆候を全く含んでいないと言えば嘘偽りとなるだろう。しかし、それと同時に、『In Utero』をフロントマンの自殺だけに関連したものとして読み解くことは、その煩瑣性を見誤ることになる。


このレコードは、スターとしての重圧、新しい家族との関係、メインストリームでの成功と芸術的誠実さの間の精神的な苦闘について、あるいは、彼の幼少期の親戚の間でのたらい回しから生じた、うつ病や死の観念について、アーカイブで表向きに語られる事以上に、彼の生におけるリアリティが織り交ぜられている。



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・ドリームポップの先駆者

 

Dream Popのオリジネーターと称されるCocteau Twins

 

「ドリーム・ポップの先駆者は、Cocteau Twins(コクトー・ツインズ)である」と意気揚々と書こうとしたところで、ダメ出しが入った。というのも、一般的にはそう見なされているが、実際にはそれ以前に、A.R.Kane(アレックス・アユリ、ルディ・タンバラのユニット)がみずからの浮遊感のあるボーカル、そしてドリーミーな雰囲気のバンドサウンドが溶け合った音楽性を「Dream Pop」と称したのが始まりだというのだ。

 

これは実際、今まであまり一般的には知られていなかったことである。それから現在、ベラ・ユニオンを主宰するコクトー・ツインズのサイモン・レイモンド氏が、みずからのバンドの音楽を”Dream Pop”と称したことから、このジャンルの呼び名が一般的に普及していった。音楽ジャーナリストや雑誌のライターがこの名前を使うようになったのはそれ以降のこと。A.R.Kaneは、1994年から長らくリリースをおこなっていなかったが、2023年に入り、カムバックし、『i』というフルレングスを発表している。このアルバムでは、以前とは見違えるようなニュー・ロマンティックやダンス・ポップ風のスタイルに挑戦している。

 

ドリーム・ポップというジャンルの音楽性の定義は、従来、一般的な商業音楽誌で説明されてこなかったという。シューゲイズに関しては、ジン、フリーペーパー、そしてシンコー・ミュージックが発刊する名盤ガイド等では、これまで再三再四、詳細な説明がなされてきた。けれど、ドリーム・ポップに関する音楽性の定義づけは、これまであまりされてこなかったという意見も見受けられる。

 

そもそも、コクトー・ツインズの80年代のアーティスト写真を見ると分かるとおり、このドリーム・ポップというジャンルは推測するに、Joy Divisionなどのゴシック・パンクの系譜にある音楽なのではないか、ということである。そして、それはゴシックを取り巻く表層的な概念ーー暗鬱、アンニュイ、耽美的、退廃的、甘美的、夢想的、ルネッサンス主義ーーと、こういった複合的なイメージが実際の音楽性と合わさり、ドリーム・ポップという音楽の概念を形成していく。


バンドのメンバーのキャラクター性に関しては、以前の1970年代のT-Rexのマーク・ボラン、David Bowie(デヴィッド・ボウイ)のグリッター・ロック(グラム・ロック)のイメージを継承している。


音楽性に関して言うなら、それ以前のJAPANなどのニュー・ロマンティックの音楽のイメージが合体し、ポスト・パンク/ニューウェイブの立ち位置を取りつつも、ポップで親しみやすい音楽という形で、複数の英国のグループがドリームポップの礎を構築していき、 Slowdive、Rideを筆頭とする1990年代のシューゲイズのムーヴメントへと繋げていった。


そのなかでは、スコットランドのギター・ポップの甘いメロディーと掛け合わせようとする試みを行うグループも複数登場した。同時に、シューゲイズの源流を形成するUKのクリエイション・レコード周辺のJesus and Mary Chain、Chapterhouse、さらに4ADのLush、Pale Saintsをはじめとする最初のウェイヴを形成するバンドも登場する。また、後のクラブ・ミュージックを音楽性の内核に擁するイメージからは想像もできないが、Primal Screamのギター・ポップ/ネオ・アコースティックを下地したデビュー・アルバムも、ドリーム・ポップに属すると見てもそれほど違和感がない。指摘しておきたいのは、シューゲイズからドリーム・ポップが生まれたのではなく、ドリーム・ポップからシューゲイズというジャンルが生み出されたということなのである。

 

 

 

・Dream Popの名盤ガイド 

 


 

Primal Scream 『Sonic Flower Groove』 1987/ Warner Music UK

 

 

 

Primal Screamの代表作といえば、真っ先に『XTRMNTR』が思い浮かぶ。しかし、その後のクラブ・ミュージックの影響を商業ロックと融合させたスタイルからは想像も出来ない音楽を引っ提げ、彼らはミュージック・シーンに名乗りを上げた。スコットランドのネオ・アコースティック/ギター・ポップに触発を受けた甘美さと憂愁を兼ね備える抽象的なギターロック・サウンドに、グラスゴー出身のバンドの郷土的な原点が見出せる。その後、イングランドからワールドワイドなグループに変身を遂げ、大掛かりで扇動的なダンス・ロックのスターに上り詰めるが、ジム/ウィリアム・リード兄弟のジーザス&メリー・チェインズ時代のドリーム・ポップに近い音楽性は今もなお貴重である。知る限りにおいて、プライマル・スクリームが繊細さとメロディーの良さを追求したのは、後にも先にもこのデビュー作だけだったのではないだろうか。

 


 


 

 

Cocteau Twins 『The Moon and The Melodies』 1986  / 4AD




コクトー・ツインズは、スコットランドで1979年に結成され、97年に解散した。Pixiesとともに4ADの黎明期を代表するグループ。もちろん、同レーベルの知名度を引き上げた貢献者として知られる。ボーカルのエリザベス・フレイザーは現在、Sun's Signatureとして活動し、ベースのサイモン・レイモンドは、ベラ・ユニオンを主宰している。グループのサウンドは、スコットランドのギター・ポップを下地にし、それらをニュー・ロマンティックやゴシック的なサウンドと結びつけている。別の見方をすると、コクトー・ツインズは、シンセ・ポップやポスト・ロック的なサウンドにも挑戦し、活動期を通じて様々な音楽を展開した。フレイザーの夢想的なボーカルと、エレクトロニックやバンドアンサンブルを融合させ、時代に先んじた音楽性に取り組んだ。1986年の『The Moon and The Melodies』では、コクトー・ツインズの代名詞的であるサウンドを体験することが出来る。オープニング「Sea, Swallow Me」の甘美的なサウンドも素晴らしいが、「Eyes Are Mosaics」の夢想的な雰囲気も捨てがたい。レーベルの最初期のゴシック的なイメージと合致を果たして、ドリーム・ポップの美学を生み出すことになった。

 



 

 

Wannadies 『The Wannadies』 1990 /MNW

 



Wannadies(ワナディーズ)は、スウェーデンの最初期のオルタナティヴ・シーンの牽引者。1988年にSkellefteåで結成。1996年に一度解散するも、2020年に復活している。バンドの音楽性は、ロック、ギター・ポップ、ジャングル・ポップ、パンキッシュな曲と広範にわたる。バンドはスウェーデンのバンドとしては大きな期待を受け、マイク・ヘッジズや、カーズのリック・オケイセックをプロデューサーに招いて、アルバムの制作を行った。後に、MNWとの関係が悪化し、最終的にBMGとライセンス契約を締結した。Wannadiesのアンセム曲としては、「You And Me Song」、「Combat Honey」が真っ先に挙げられるが、ドリーム・ポップという括りで語るなら、『The Wannadies』が最適だ。このファースト・アルバムには、スコットランドのギター・ポップの影響も見受けられる。ノスタルジア溢れるドリーム・ポップソングが満載である。

 


 

 

Slowdive 『Souvlaki』 1994/Sony Music

 



SlowdiveはMy Bloody Valentineとともに、クリエイション・レコーズの象徴的な存在であり、ブリット・ポップと次の時代のイギリスのミュージックシーンを架橋するような役割を果たしたと言えるだろう。シューゲイズとして取り上げられることも多いバンドだが、特に、良質なメロディー、そして夢想的な雰囲気がこのバンドの象徴的な音楽性に挙げられる。『Souvlaki』はコクトー・ツインズの音楽性を受け継ぎ、甘美的なインディーロックサウンドを追求している。「Alison」、「Machine Gun」、「40Days」等、良質なオルタナティヴ・ロック・ソングを収録。ノイジーなサウンドづくりに加え、その合間のサイレンスもスロウダイヴの唯一無二の魅力と言える。バンドは、今年に入り、『Everything Is Alive』を発表し、新境地を開拓している。

 



 

 

Alison's Halo   『Eyedazzler』1998/ Manufactured Recordings

 



Alison's Halo(アリソンズ・ヘイロー)は、キャサリン/アダム夫妻を中心に、1992年にアリゾナで結成された。シューゲイズ・バンドとしてマニアの間でひっそりと知られている。ただ、ここでは、ドリーム・ポップのグループとして紹介する。Alisson's Haloは、92年から98年まで活動した。六年間で1998年に唯一リリースされたのがこのアルバムだった。発売当初は二枚組としてアーカイブ的な意味合いでリリースされた。『Eyesdazzler』は、シューゲイズ・ギターと、シンプルなベースライン、キャサリン・クーパーの甘ったるいボーカルを特徴とする幻の傑作である。シューゲイズサウンドの中に見られる奇妙なアンニュイさは、コクトー・ツインズのフォロワー的な存在と見て良いかもしれない。「Sunsy」、「Jetpacks For Julian」は必聴。

 


 

 

 Kitty Craft 『Beats and Brakes from The Flower Patch』 1998 / Takotsubo Records




Kitty Craftは、1994年にPamela Valfer(パメーラ・ヴァルファー)により立ち上げられたソロ・プロジェクト。最初期のEPやアルバムは、鍵盤やサンプラーにより制作された。そのうちのほとんどはホームレコーディングを中心に自主制作をおこなった。年代的に見て世界初のベッドルームポップ・プロジェクトで、本物の天才プロデューサーである。1998年に発売された『Beats and Brakes from The Flower Patch』は、ヒップホップ/ヴィンテージ・ソウル/クラシックのサンプリングや、ブレイクビーツを取り入れたローファイ・ホップである。しかし、Pamela Valfer(パメーラ・ヴァルファー)のボーカルには夢想的な雰囲気が漂い、ドリーム・ポップ風のフレーズが生み出されている。ソウルとはまったくかけ離れた音楽でありながら、ハートウォーミングな感覚に浸されている。なお、今作は、昨年、Takotubo Recordsよりボーナス・トラックを追加収録して発売された。現在も、Pamela ValferはLAを拠点に活動中とのこと。


 

 

 Asobi Seksu  『Citrus』 2007/ One Little Independent



 

米国の日本人ボーカルのバンドといえば、まず最初に、ニューヨークのジャズシーンで高い評価を受けたMakino Kazu擁するBlonde Redheadが思い浮かぶが、Yuki Chikudate (ボーカル、キーボード)とJames Hanna (ギター)からなるユニット、Asobi Seksu(アソビ・セクス)も忘れてはならないだろう。本拠地はニューヨークのブロンクス。2人はマンハッタン音楽院でクラシックを専攻していた際に出会った。バンドは、その後、William Pavone、Larry Gormanをラインナップに迎え、四人編成で活動し、2001年から2013年まで活動をつづけた。


セルフ・タイトルのデビュー・アルバムのフィジカル盤の内ジャケットには、「ドリーム・ポップ・ワールド」と銘打たれており、キラキラしてフワフワした浮遊感のあるシューゲイズに近いインディー・ポップを特徴としていた。デビュー作で、すでに良質なソングライターとしての片鱗を見せたYuki Chikudate。その才覚が花開いた2ndアルバム『Citrus』は、バンドの最高傑作と見ても良いかもしれない。マニア向けのドリーム・ポップバンドでありながら、Pitchfork,New York Times,SPIN、NMEでもレビューで取り上げられ、好意的に受け入れられた。 Yuki Chikudateのハイトーンのボーカル、トレモロ・ギター、独特なキラキラした世界観が劇的な融合を果たして、2010年代以降のドリームポップ・リバイバル時代への重要な橋渡し役となった。

 


 

 

Mass Of The Fermenting Dregs 『World Is Yours」 2009/ Universal Music

 

 

 

意外と、日本よりも海外で人気が高い印象もある、Mass Of The Fermenting Dregs。デビュー前は、Audio Leafで無料で曲が聞くことが出来た。バンド名からも分かるとおり、マス・ロックに近いテクニカルな構成力を持つオルタナティヴロックバンド。フジかサマー・ソニックの新人枠で出演する以前、グランジに近い音楽性を特徴としており、ワンピースでベースをかき鳴らす様子は、当時の東京のインディーズ・シーンで異彩を放っていた。徐々にJ-Popの影響を交えた曲も書くようになり、人気が定着する。


オリジナル・メンバーの脱退、メンバー加入等、紆余曲折あったが、近年復活を果たし、昨年、『Awakening: Sleeping』をリリース後、ヨーロッパ・ツアーを成功させた。へヴィーロックからドリーム・ポップ、日本語ロックまでを網羅的に収録。今回、ご紹介する実質的なデビュー作「World Is Yours EP 」は、Mass Of The Fermenting Dregsの名を海外にも知らしめることになった傑作。ナンバー・ガールを思わせるパンキッシュなギター・ロックに加え、ドリーム・ポップにも近い雰囲気も漂う。正直、このEPに関しては現在、流通状態がどうなっているのかは不明。タイトル曲「World Is Yours」は日本のインディーロックの歴史に残る名曲のひとつだ。


 

 

 

Beach Fossils 『Beach Fossils』 2010/ Bayonet Records(オリジナルの発売はCaptured Tracks)

 

 


今では、2010年代のニューヨークのベースメント・ロックの象徴的な存在として知られるようになったBeach Fossilsであるが、当時、私が海外盤を発売当初入手して、すごいバンドが出たと吹聴した時、周りの人たちは誰もこのバンドのことを気にも留めていなかった。少なくとも、ビーチ・フォッシルズは2010年代のニューヨークのインディーロック・シーンの最重要バンドであることに変わりはない。しかし、このサーフ・ロックとドリーム・ポップ、そしてストーンズの古典的なロックを融合させた「Daydream/ Desert Sand」を引っ提げ、ビーチ・フォッシルズが登場したときの衝撃は未だに忘れることが出来ない。


リバイバルという形はすでにニューヨークのローワーイーストサイドで、2000年代に沸き起こっていたが、ビーチ・フォッシルズは、ガレージ・ロックのリバイバルの構図を、シューゲイズやドリーム・ポップの音に一新させてしまった。その後、バンドは、『Clash The Truth』、『Somersault』を発表した。元ドラマーで、ジュリアード音楽院でジャズを学んだトミー・ガードナーとのバンドの楽曲をジャズにアレンジしたアルバム『The Other Side of LIfe: Piano Ballads』を発表した。現在、ダスティン・ペイザーは、Bayonet Recordsを立ち上げ、新進バンドの発掘にも貢献している。バンドは今年に入り、最新作『Bunny』をBayonetからリリースしている。

 

 


 

 

Sea Oleena 『Sea Oleena』2010  / Charlotte Loseth

 


 

Sea Oleenaは、カナダ・モントリオールの兄妹、シャルロット・オリーナとルーク・ロゼスのエレクトロニカ・ユニット。現行のベッドルーム・ポップの先駆的な存在でもある。レコーディングの多くは、兄妹の自宅で行われ、ギター、ピアノをはじめとする楽器が自前のラップトップで録音され、レコーディングからリリースまでのおおよそが兄妹二人の手でなされている。Youtubeの公式のPV以外は、音源リリースは、カセットテープ、Sound Cloudでのリリースを中心に活動している。昨今、リリース音源がCDというかたちで市場に残るようになった。 Sea Oleenaの鮮烈なセルフ・タイトルのデビュー作は、ミニマルなインディー・フォークとドリーム・ポップを融合させた「Swimming Story」等が収録。2013年にはオリジナル盤に「Sister」を始めとする七曲を追加収録したバージョンが発売されている。


 

 

 

Lightning Bug 『A Color Of The Sky』  2021 / Fat Possum


 

Audrey Kang(オードリー・カン)を中心に結成されたニューヨークのLightning Bug。2015年から三作のフルレングスを発表している。フロントパーソンの透明感のあるボーカルが特色で、フェイザー・ギターやフォーク音楽を吸収したリズムがその音楽の魅力を引き立てる。バンドサウンドの風味は、シューゲイザー、ドリーム・ポップの中間点に位置し、不可思議な幻想性がほのかに漂う。「A Color Of The Sky」は、ニューヨークのキャッツキルでレコーディングされ、「リスナーには、自分の内面の世界を探求してほしいと思います。この作品は、自分を信頼すること、自分に深く正直になること、そして、自己受容が無私の愛を生み出すことを主題にしている」とフロントパーソンのオードリー・カンは説明している。ドリーム・ポップにみならず、落ち着いたフォークミュージックとして楽しめる。長く活躍してほしいバンドのひとつ。



 


 

Living Hour 『Someday Is Today』2022/ Next Door


 


カナダ、マニトバ州のウィニペグのバンド、Living Hour(リヴィング・アワー)。シューゲイズ寄りの骨太なロックサウンドが最大の魅力ではあるが、その中にドリーム・ポップ、トロピカル、エレクトロ等のクロスオーバーが見られることもカナダのロック・バンドらしい特徴である。デビュー・アルバムも捨てがたいものの、最新作『Someday Is Today』はリヴィング・アワーの出世作。今作には、Jay Somがゲストとして参加。制作は当初の予定よりも遅れ、最も寒い期間に制作が行われている。バンドが、ドラキュラが出そうな中世ヨーロッパの雰囲気と説明するレコーディング・スタジオで制作されたのも、特異なインディーロックサウンドを生み出す契機となった。シューゲイズのアンセム「Feeling Meeting」もクールだが、ドリーム・ポップという観点からは「Hump」がおすすめ。また、スロウコア風の「Curve」なども収録されている。

 



 

Lande Hekt 『Romantic』 Single 2022/ Emotional Response

 


 

マンシー・ガールズのフロントマンとして知られるランデ・ヘクトのソロ・プロジェクト。しかし、マンシー・ガールズは解散を発表し、フェアウェル・ツアーが今年の11月と12月に開催される予定。ということは、今後、ソロプロジェクトの専念するということなのか。ランデ・ヘクトは、パンキッシュな印象のあるマンシー・ガールズとは異なり、このソロ・プロジェクトを通じて、スコットランドのネオ・アコースティック、ギター・ポップを継承して、それらをエモーショナルなロックソングに昇華している。アーティストのゴシックへの興味についても曲にユニーク性を付与している。ジャングル・ポップ/パワー・ポップの名曲「Romantic」は、ぜひチェックしてもらいたい。2022年発売された2ndアルバム『House Without A View』はギター・ポップとしてはもちろん、ドリーム・ポップとしても楽しめるアルバムとなっている。

 



 

 

 

Smut 『How The Light Felt』2022 / Bayonet

 



シカゴの四人組インディーロックバンド、シンプルなロックソングが特徴。その中にはドリーム・ポップに近い夢想的な雰囲気に溢れている。バンドは先日、Audio Treeのラジオ・セッションに登場し、このアルバムの収録曲を演奏している。オアシス、クランベリーズを彷彿とさせるクラシカルなロックの型に加え、メロディアスな楽曲が特色である。このアルバムはボーカリストの妹の死を原動力に書かれた。実際、その中には落胆した人々の肩を支えるような力強さもある。Bayonet Records所属というのもあり、今後の動向に注目しておきたいオルタナティヴロックバンド。このアルバムには「Supersolar」、「Believe You Me」といった良曲が収録されている。


Club Chinois
 

いわずもがな、ヨーロッパは全般的にクラブカルチャーが盛んな土地である。どうやらそれは、スペインのクラブカルチャーが1980年代から現在まで続いてきたことに要因があるようだ。南洋のサンゴ礁が輝く諸島のようなエメラルドの海、白亜石のような白っぽい建築素材でできた家々、ギリシャのエーゲ海のサントリニ島、ミコノス島、ロードス島に見られるカラフルな塗料を施した建築群、そして、もちろん、カラフルなビーチ・パラソルが目立つ寛いだ砂浜。こういったギリシャやイタリアで見られるような個性的な景観は、南ヨーロッパの国土の最大の美点だろう。

 

そして、西ヨーロッパのパーティー・サーキットが世界的に有名なのには理由がある。雰囲気はアメリカよりもはるかにリラックスしていて、バカンス寄りだ。飲み物は豊富で、特に強力なリキュールを使っている。パーティーは遅く始まり、遅く終わる。フランス、スペイン、イタリアのクラブでは、Alors On DanseやDragostea Din Teiがいまだに愛されていることに驚くだろう。


ヨーロッパは文化の奥深さにより知られていると言うとき、それはルネッサンスの芸術や建築と同様にナイト・ライフにも該当する。フィレンツェはウフィツィ美術館とメディチ家の貢献で知られているが、ナイトクラブでも知られている。そしてパリでは、昼間はオルセー美術館のマネやドガの絵画、ルーヴル美術館のエジプト・コレクションを見ることに挑戦する。しかし、夜には、午前2時の地下鉄に乗り遅れたら、電車が再開する午前6時まで外にいることも出来る。


スペインのナイトライフは、マドリードからマヨルカまで、その種類はさまざま。アシュトン・カッチャーと同じウェスト・ハリウッドのクラブに入ろうとするようなL.A.のクラブ遊びとは違うらしい。髪を下ろして、Ai Se Eu Te Pego(ノッサ!ノッサ!)の大合唱に参加するような、のんびりしたパーティーだ。スペインのパーティー文化は、音楽を感じ、魅惑的な雰囲気に身を任せるというもの。アメリカでは、たとえラスベガスやマイアミであってもそのノリは通じない。


スペインのパーティーの聖地といえば、イビサ島だ。バレアレス諸島の一部であるイビサは、バレンシア沖、パルマとメノルカの南に位置する。イビサは、パーティーの主要地として国際的に高い評価を得ているが、その客観的価値はすぐに変わることはないだろう。2000年代初頭のベニー・ベナシやベースハンターのヴァイブスから、最近のデュア・リパのヒット曲まで、ハウスミュージックとポップスのリミックスが君臨する場所だ。イボシム(Ibosim)のようなイビサのクラフトビール、島の有名な蒸留酒ヒエルバ(Hierbas)、アブサン(Absinthe)のような古典的なヨーロッパのパーティー・リキュールなど、ドリンクもビーチと同様に文化の一部だ。


では、イビサがアルコールと音楽に酔いしれる快楽主義的な評判を実際に高めたのはいつなのだろう? ヨーロッパのみならず、世界の真のパーティーの首都となったのはいつなのだろうか?


当然、イビサのパーティー・カルチャーは、60年代から70年代にかけて、ヒッピー、クリエーター、アーティストたちが、社会への適合性(そして現実の仕事)から逃れてきたことに端を発している。このような考え方に由来しないパーティー・カルチャーがあるだろうか? イビサ島には、よりのんびりとしたアーティスティックな文化の先例がすでにあった(それは30年代にスペイン本土を出発した人々まで遡る)ので、70年代にこの文化がさらに定着しても驚くには値しなかった。


一般の人々は、イビサをエレクトロニック・ハウス・ミュージックのシーンとしか見ていないかもしれないが、イビサのサウンドはもっと多面的で複雑だ。70年代に形成されたほとんどの音楽シーンと同様に、ロックンロールはイビサの初期のパーティーの歴史の大きな部分を占めている。実際、BBC Travelによると、エリック・クラプトンは、77年にジョージ・ハリスンと一緒にこの島に現れ、フレディ・マーキュリーは、41歳の誕生日をイビサで迎え、Wham!は今や象徴的なホテルとなったパイクスでクラブ・トロピカーナのビデオをレコーディングしたという。


この頃、イビサ島で最も古いクラブが2つオープンした。70年代のパチャ、そして80年代のアムネシア。この2つのクラブは、70年代と80年代のアンセムに加え、低音を効かせたハウス・ミュージックやデヴィッド・ゲッタなどのゲストDJシリーズを歓迎する環境を作り上げた。80年代から90年代にかけて、クラブはPachaとAmnesiaの2店舗をお手本とし、イビサのパーティーシーンは、セレブリティ主催のパーティーナイトや、必ず訪れるべきクラブハウスを軸に成長していった。


Club Eden

音楽は、イビサの文化の大きな部分を占めているおり、90年代から2000年代初頭にかけてライブコンサートや音楽フェスティバルが開催された。そしてパーティーを中心とする文化の成長を促進した。70年代のロック・スターが誇りに思うような才能を歓迎し、イビサは、音楽面でも様々なジャンルのミュージシャンを受け入れるように。その後の年代には、ロック・ミュージックが盛んになった。たとえば、Ibiza Rocks Festivalでは、アークティック・モンキーズやザ・リバティーンズがホスト役を務め、「I Bet That You Look Good on the Dance Floor」を口ずさむオーディエンスが、ハウス・ミュージックの先駆者たちと仲良くプレイできることを証明している。


イビサ島の魅力は、ただ純粋に楽しみ、朝まで飲み明かすだけの場所ではないこと。イビサが世界中の人々を惹きつけてやまない理由もそこにある。テクノ、ボーホー、ロックンロール、どのような雰囲気に惹かれるかに関わらず、イビサ島は奥深いカルチャーの魅力があるようです。


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南アフリカで誕生した新たなミュージックシーンの息吹 ーAMAPIANOー

 

 

イギリスでは、年間のフェスティバル・シーズンは、グラストンベリーで始まり、レディングでひとまず終了します。2023年のレディング・フェスティバルは、姉妹開催のリーズ・フェスティバルとともに8月25日から27日まで開催されました。今年は雨の予報がでていましたが、それほど天候不順にも見舞われず、フェスは無事終了。当該期間、フェス参加者はキャンプ場のテントに拠点を張り、魅力的なアーティストのライブを体験するという機会に恵まれました。

 

サマセットにある小さな町の農場で行われるグラストンベリー・フェスティバルが、長閑な場所で行われる音楽の祭典であるとするなら、中世から由緒ある町並みを持つことで知られるレディング・フェスティバルは、堅実なアーティストが多数参加する都市型フェスティバルの雰囲気があります。

 

 

 レディングには、開催当初から、イギー・ポップ、ニルヴァーナ、ストーン・ローゼズ、プライマル・スクリーム、ブラー、アークティック・モンキーズ、レディオ・ヘッド、ビョーク、オアシス、カサビアン、エミネム、レッチリ、パール・ジャム、メタリカ、アーケイド・ファイア、ピクシーズ、ホワイト・ストライプス、ザ・ストロークス、マイケミ、スマッシング・パンプキンズ、グリーン・デイ、フー・ファイターズ、ケンドリック・ラマー。国内外の伝説的なアーティストが多数出演しています。

 

2023年度は、The 1975、Foals、Rina Sawayama、Wet Legといった、日本の大型フェスでもおなじみのアーティストから、世界が誇るポップ・アイコン、Billie Eilish、イギリス国内で絶大な人気を誇るシンガーソングライター、Sam Fender、ディスコ・ロックの王者、The Killersまで堅実なラインナップが組まれ、三日間にわたって魅力的なパフォーマンスが行われました。

 

今回、BBCがライブアクト動画を公開しています。注目のアクトを以下に取り上げていきましょう。

 

  

 

 

The 1975

 

The 1975は土曜日にレディングに登場している。

 

実は、この前のアイルランドのフェスティバルでは、ビールサーバーをステージに設置し、フロントマンはメガネをかけ、長い白衣姿でステージに登場した記憶がある。マティ・ヒーリーは、この日、レザー・ジャケットでワイルドに決め込んでいる。従来よりもライブステージの演出が壮大になり、ひとつの大掛かりな総合エンターテインメントが今回のステージで確立された。

 

レディングのステージは、アンコールという形ではなく、二部構成のような形で組まれた模様。 バンドは、デビューアルバムの収録曲「Robbers」を中心にセットリストを組んでいる。ライブ・バンドとしては今や世界一ともいえるロック・バンドの抜け感のあるアクトをご堪能あれ。

 

 

 

 

Setlist:

 

The City
M.O.N.E.Y.
Chocolate
Sex
Talk!
Heart Out
Settle Down
An Encounter
Robbers
Girls
She Way Out
Menswear
Pressure


It's Not Living (If It's Not With You)
Happiness
I'm in Love With You
Oh Caroline
If You're Too Shy (Let Me Know)
I Always Wanna Die (Sometimes)
About You



The Killers


 

2008年に同フェスのヘッドライナーを務めているThe Killers。先日、ニューシングルを発表したばかり。最早このお祭りの常連と言える。The 1975と同じく二日目のステージに登場しました。

 

ディスコ・ロックの王者は、新作から2年遠ざかってはいるものの、今回のステージのオープニングでは、2021年のアルバムの収録曲「My Own Soul's Warning」を筆頭に、ブレイクの契機となった『Sam's Town』の収録曲「When You Were Young」を中心にセットリストを組んでいる。

 

また、この日のステージでは、光の演出を交え、女性コーラスを背後に華やかなダンス・ロックを披露している。このあたりに、ライブ・バンドとしての経験豊富さと余裕が表れている。アンコールでは、『Wonderful Wonderland』の「The Man」、「Human」を披露し、観客を湧かせた。


 

 

 

Setlist:

 
My Own Soul's Warning

Enterlude

When You Were Young

Jenny Was a Friend of Mine

Smile Like You Mean It

Shot at the Night

Running Towards a Place

Somebody Told Me

Spaceman

For Reasons Unknown
(fan Ozzy played the drums)

Your Side of Town
(Live debut)

Runaways

Read My Mind

Caution
(with "Rut" Segue intro)

All These Things That I've Done


Encore:

 
The Man

Human
(Electro)

Mr. Brightside



Sam Fender


 

ニューキャッスル出身のシンガーソングライター、サム・フェンダーは、FC ニューキャッスルの本拠地で同チームの白黒のストライプのギターでライブを行う予定だったが、過密日程により体調を壊し、ライブをキャンセル。しかし、レディングで無事復帰し、安定感のあるパフォーマンスを披露している。

 

誰よりも同年代の若者を思いやるシンガーソングライターで、自殺念慮のある若者を勇気づけるための曲を書いたり、イギリスの社会的問題にも歌の中で言及している。フェンダーは、2年前に新作アルバム『Seventeen Going Under』を発表、ポップ・シンガーとして若者から大きな支持を得た。ライブでは以前よりも成熟したパフォーマンスをバンドセットで披露している。声質がポリスのスティングに少し似ており、独特の清涼感のある伸びやかな声質を持つ稀有な存在。

 

 

 

 

 

Setlist:

 
The Kitchen
(First time since 2020)
Will We Talk?
Getting Started
Dead Boys
Mantra
The Borders
Spice
(Extended intro)
Howdon Aldi Death Queue
Get You Down
Spit of You
Alright
That Sound
(First time since 2021)
The Dying Light


Encore:

Saturday
Seventeen Going Under

Hypersonic Missiles 



Holly Humberstone




それほどイギリス国外では有名ではないものの、注目しておきたいベッドルームポップ・シンガー。ホリー・ハンバーストンは、ルイス・カパルディのコンサートで人気を博すようになった。

 

イギリスのフィービー・ブリジャーズといえば、よりわかりやすいかもしれない。乗りのよいインディー・ポップが表向きの印象であるが、よく聞くと、ポップネスの中に繊細でデリケートな情感が漂い、聴き応えがある。ホリー・ハンバーストンは、二日目のステージに登場し、8曲を披露している。また、今回のライブの途中には、アーロ・パークスと共演を果たしている。

 

 

 

Setlist:


The Walls Are Way Too Thin
Overkill
Antichrist
Falling Asleep at the Wheel
Superbloodmoon
Room Service
(with Arlo Parks)
Vanilla
Scarlett

 

 

Arlo Parks

 

 

イギリス出身で、現在はロサンゼルスを拠点に活動するアーロ・パークス。当初、ネオ・ソウルシーンのニューライザーとして登場したが、次第に甘口のインディーポップ/ベッドルームポップへとシフトチェンジを図っている。昨年、サマーソニックで来日。パークスは、先日、新作アルバム『My Soft Machine』では良質なポピュラーミュージックのニュー・トレンドを確立した。

 

同日に登場したベッドルーム・ポップの新星、ホリー・ハンバーストンのステージで共演を果たしたパークスは、この日、六曲というシンプルな短めのセットリストを組んでいる。デビュー・アルバムから「Caroline」、「Eugene」。最新作から「Blades」「Weightness」を中心に披露している。ライブでは、やはり単なるインディーポップというよりも、ネオ・ソウルやローファイの影響が取り入れられ、まったりとしたチル・ウェイブにも近い音楽性が披露されている。


 

 

Setlist:

Weightless
Blades
Caroline
Eugene
Devotion
Softly 



Rina Sawayama



ロンドンのポップ・スター、リナ・サワヤマは、グラストンベリーに続いてレディングの初日に登場。

 

今回のステージでは、最新作の収録曲を中心に、9曲を披露。グラストンベリーに比べると、比較的コンパクトなセットリストが組まれていることが分かる。アンコールは行われなかった。

 

『Hold The Girl』のレビューでも現地の複数のメディアが指摘していたが、ポップ・スターは、エヴァネッセンスをはじめとするニュー・メタルに強い触発を受けている可能性があるということだった。レディング・フェスティバルのステージを見ると、その点が確証に近くなるのではないか。マイク・パフォーマンスのアジテーションは、この曲の直前に最高潮に達している。

 

 

 

「Comme Des Garçons」では、現行のポップ・アイコンのステージ演出と視覚芸術としてのダンスを意識しつつも、平成時代の小室ファミリーを中心とするAvexのアーティストのスタイリッシュなステージ演出を継承している。この点にJ-Popファンとしては感慨深いものを覚えざるを得ない。


 

 

 

Setlist:


Hold the Girl

Hurricanes

Dynasty

Imagining

STFU! / Break Stuff

Frankenstein

Comme des garçons (Like the Boys)

XS

This Hell
(with Call and Response game)

 

 

Hiroshi Yoshimura

 横浜出身の吉村弘(Hiroshi Yoshimura 1940-2003)は、近年、海外でも知名度が高まっている音楽家で、日本の環境音楽のパイオニアです。厳密にいえば、環境音楽とは、工業デザインの音楽版ともいえ、美術館内の音楽や、信号機の音楽、電車が駅構内に乗り入れる際の音楽など、実用的な用途で制作される場合がほとんどです。

 

 彼の歴代の作品を見ると、釧路市立博物館の館内環境音、松本市のピレネ・ビルの時報音、営団地下鉄の南北線の発車サイン音/接近音、王子線の駅構内、第一ホテル東京シーフォート、横浜国立総合競技場、大阪空港国際ターミナル展望デッキ、ヴィーナス・フォート、神戸市営地下鉄海岸線のサウンド・ピクトグラム、福岡の三越百貨店、神奈川県立近代美術館と多種多様な施設で彼の音楽が使用されてきました。

 

 吉村弘は、音楽大学の出身ではなく、早稲田大学の夜間である第2文学部の美術科の出身です。俗にいう戸山キャンパスと呼ばれる二文は他にも、名コメディアンの森田一義などを輩出している。体系的な音楽教育を受けたのではないにも関わらず、アナログ・シンセサイザーの電子音楽を通じて環境音からバッハのような正調の音楽まで幅広い作品に取り組んできました。特に、環境音についてはそれ以前に作例がなかったため、かの作曲家の功績はきわめて大きなものでもある。

 

 特に、この環境音を制作する際、吉村は実際の環境中に実存する音をテーマにとり、それを自らのイマジネーションを通じ、機械的な、あるいは機能的な音楽に落とし込むことで知られていました。例えば、1991年の東京メトロ(営団地下鉄)の南北線の環境音が制作された時に以下のようなエピソードがあったのです。そしてまた、複数箇所の駅に環境音が取り入れられたことに関しては、日本の駅という気忙しい印象を与えかねない空間に相対する際、利用者の心に癒やしと安らぎ、潤いをもたらす意味合いが込められていたのです。

 

 南北線では、1991年に接近・発車案内にメロディー(サイン音)を採用しました。これまでの営団地下鉄の発車合図は単なるブザーだっただけに当時は画期的な試みとして注目されました。メロディーは東京都の音楽制作会社「サウンドプロセスデザイン」のプロデュースにより、環境音楽家、吉村弘が制作。この際、吉村は王子駅付近を流れる音無川(石神井川)や滝からイメージを膨らませて「水」をテーマに、接近メロディーは「水滴や波紋」、一方の発車メロディーは「水の流動的な流れ」をモチーフにしていました。抽象的な実際の自然音に触発を受け、それらを彼の得意とするシンセサイザーを用い、環境音を制作したのです。


 実際に環境音の使用が開始されると、予想以上に彼の作曲した音の評判は良く、その後、目黒線、都営三田線、2001年に開業した埼玉高速鉄道線でも採用された。さらに鉄道会社の枠組みを越えた直通運転共通のメロディーとして幅広いエリアで使用されるようになった。2015年から、南北線、目黒線と三田線でも、吉村弘の環境音から次の新しいメロディーに移行されたため、現在、彼の環境音はほとんど使用されていないと思われます。しかし、彼の環境音は長いあいだ、鉄道利用者の心を癒やし、そして安らぎを与え続けたのです。

 

 吉村弘の音楽家としての功績は環境音楽の分野だけにとどまりません。年にはNHK邦楽の委託作品「アルマの雲」を作曲したほか、日本の黎明期のエレクトロニカの名盤として知られる『Green』(1986)、と、実質的なデビュー作でありながらアンビエントの作風を完全に確立した『Music For Nine Post Cards』(1982)といった傑作を世に残しています。さらに、吉村弘は、TV・ラジオにも80年代と90年代に出演しており、「環境音楽への旅」(NHK-FM)、「光のコンサート '90」(NHK-BShi)「列島リレードキュメント 都会の”音”」(NHK総合)にも出演しています。 

 

 これらのそれほど数は多くないにせよ、音源という枠組みにはとどまらない空間のための音楽をキャリアの中で数多く生み出し続けた作曲家、吉村弘のインスピレーションは、どこからやってきたのでしょうか?? 生前、多くのメディアの取材に応じたわけではなかった吉村は、自らのインスピレーションや制作における目的を「Music For Nine Post Cards-9枚のハガキのための音楽」のライナーノーツで解き明かしています。

 

そして、どうやら、彼の言葉の中に、環境音楽やサウンド・デザインにおける制作の秘訣が隠されているようです。特定の空間のため、また、その空間を利用する人々のために制作される「環境音」とはどうあるべきなのか。そのことについて吉村弘は、まだ無名の作曲家であった80年代の終わりに以下のように話しています。

 


 

 この音楽は、「気軽に聴けるオブジェや音の風景」とも言えるもので、興奮したり別世界に誘ったりする音楽ではなく、煙のように漂い、聴く人の活動を取り巻く環境の一部となるものである。

 

 エリック・サティ(1866-1925)の「家具の音楽」やロック・ミュージシャンのブライアン・イーノの「アンビエント・シリーズ」など、まだ珍しい音楽ではあるが、俗に言う「オブジェクト・サウンド」は自己表現でも完成された作品でもなく、重なり、ずれることで、空間や物、人の性格や意味を変えてしまう音楽である。


 音楽はただ存在するだけではないので、私がやろうとしていることは、総合的に「サウンドデザイン」と言えると思います。


 「サウンドデザイン」とは、単に音を飾ることではなく、「できれば、デザインとして、音でないもの、つまり静寂を作り出すこと」ができれば素晴らしい。目は自由に閉じることができるが、耳は常に開いている。

 

 目は自由に焦点を合わせて向けることができるが、耳はあらゆる方向の音を音響の地平線まで拾い上げる。音響環境における音源が増えれば増えるほど(そして、それは今日も確実に増えている)、耳はそれらに鈍感になり、本当に重要なものに完全に集中するために、無神経で邪魔な音を止めるよう要求する個人主義的権利を行使できなくなると考えるのは妥当なように思われます。


 現在、環境中の音や音楽のレベルは人間の能力を明らかに超えており、オーディオの生態系は崩壊し始めている。

 

 「雰囲気」を作るはずのBGMがあまりにも過剰で、ある地域や空間では、ビジュアルデザインは十分に考慮されているが、他方、サウンドデザインは完全に無視されている現状がある。いずれにせよ、建築やインテリア、食べ物や空気と同じように、音や音楽も日常的に必要なものとして扱わなければならない。

 

 雲の動き、夏の木陰、雨の音、町の雪、そんな静かな音のイメージに、水墨画のような音色を加えたいと思い作曲しました。


 前作「アルマのための雲-二台の琴のための」(1978)のミニマルな音楽性とは異なり、9枚の葉書に記された音の断片をもとに、雲や波のように少しずつ形を変えながら短いリフレインを何度も演奏する音楽。


 実は、この曲を作っていたある日、北品川にある新しい現代美術館を訪れたんです。雪のように白いアールデコ調の外観のうつくしさもさることながら、美術館の大きな窓から見える中庭の木々に深い感銘を受けて、そこで自分の作ったアルバムを演奏したらどんな音がするのだろう? そして、いざ、ミキシングを終えて、カセットテープに録音した後、再びこの美術館を訪ねたところ、無名作曲家の依頼を快く引き受けてくださり、「よし、美術館でこの音楽をかけてみよう」ということになり、とてもうれしく、励まされました。      

 

名門Deccaからデビューを控えている注目のシンガーソングライター、sandrayati

 

近年では、言語そのものは20世紀の時代よりもはるかにグローバルな概念になりつつある。ある特有の言語で発せられた言葉や記された言葉は、それが何らかの影響力を持つものであれば、誰かの手によって何らかの他の言語に翻訳され、すぐさま広範囲に伝えられるようになるわけです。

 

 しかし、グローバルな言語は、ある側面において、言葉というものの価値を損ねてしまう危険性もある。グローバルな言葉は、その持つ意味自体を軽くし、そして希薄にさせる。それは客観的に捉えると、言語ではなく、記号や「符号」に近いものとなるが、言葉として発せられるや否やそれ以上の意味を有さなくなるのです。これは言語学の観点から見ると難しい面もある、少なくとも、その土地土地の言葉でしか言いあらわすことの出来ない概念というのがこの世に存在する。日本語で言えば、方言が好例となるでしょう。わかりやすく言えば、例えば、沖縄の方言は標準語に直したとしてもそれに近い意味を見出すことは出来ますが、その言葉の持つ核心を必ずしも捕捉した概念とは言い難いのです。その地方の人が共有する概念からはいくらか乖離してしまう。

 

 それらの固有の言葉は、その土地固有の概念性であり、厳密に言えば、どのような他の言語にも翻訳することは出来ません。そして、その固有性に言葉自体の重みがあり、また大きな価値があるといえるのです。特異な言語性、また、その土地固有の言語性を何らかの形で伝えることは、文化的に見ても大きな意義のあることに違いありません。

 

 20世紀までの商業音楽は、米国や英国、つまりウォール街やシティ街を都市に有する場所から発展していき、それらが、他の大都市にも波及し、この両国家の都市の中から新たな音楽ムーブメントが発生し、何らかのウェイヴと呼ぶべき現象を生み出してきました。ひとつだけ例外となったのは、フランスのセルジュ・ゲンスブールと、彼がプロデュースするジェーン・バーキン、シルヴィー・バルタンを始めとするフレンチ・ポップス/イエ・イエの一派となるでしょう。しかし、この年代までは、スター性のある歌手に活躍が限られていました。それらの音楽が必ず経済の強い国家から発生するという流れが最初に変化した瞬間が、80年代から90年代であり、アイルランドのU2に始まり、アイスランドのビョーク、またシガー・ロスが登場するようになりました。U2は英語圏の歌手ですが、特に、シガー・ロスは、時には歌詞の中でアイスランド語を使用し、英語とはまた異なる鮮明な衝撃をミュージック・シーンに与えました。


 2000年代、Apple Musicがもたらした音楽のストリーミング・サービスの革命により、広範な音楽が手軽に配信されるようになってから、これらの他地域からのアーティストの登場という現象がよりいっそう活発になってきました。今では、英語圏にとどまらず、非言語圏、アフリカ、アジア、南米、東欧ヨーロッパに至るまで幅広いジャンルのアーティストが活躍するようになっています。

 

 例えば、スペイン音楽の重要な継承者であるロザリアがメイン・ストリームに押し上げられ、イギリス、アメリカ、さらに海を越えて日本でも聴かれるようになったのは、ストリーミングサービスの普及に寄与するところが多いかもしれません。近年、2010年代から20年代に入ると、この一連の流れの中でもうひとつ興味深い兆候が出てきました。それは英語ではない、その土地固有の言語を駆使し、独自のキャラクターにするアーティストです。この20’Sの世代に登場したアーティストは、10年代のグローバリズムと反行するかのように、その土地土地の地域性、音楽文化、そして、その土地固有の言語に脚光を当て、一定の支持を得るようになっています。

 

 今回、このソングライター特集では、非英語圏の固有の言葉を使用する魅力的なアーティスト、ソングライターを中心にごく簡単に皆さまにご紹介します。これらの流れを見る限りでは、すでにグローバリズムは音楽シーンの範疇において時代遅れの現象と言え、一般的なキャラクター性でカテゴライズされる「世界音楽」は衰退する可能性もある。むしろ、この20年以後の時代は、その土地の地域性や固有性を持ったアーティストが数多く活躍するような兆候も見られるのです。

 

 

1.Gwenno -コーニッシュ語を駆使するシンガーソングライター、民俗学とポピュラー音楽の融合-

 


グウェノーは、ウェールズのカーディフ出身のシンガーソングライターで、ケルト文化の継承者でもある。グロスターのアイリッシュダンスの「Sean Eireann Mcmahon Academy」の卒業生である。

 

グウェノーの父親、ティム・ソンダースはコーニッシュ語で執筆をする詩人としての活躍し、2008年に廃刊となったアイルランド語の新聞「ベルファスト」のジャーナリストとして執筆を行っていた。さらに、母であるリン・メレリドもウェールズの活動家、翻訳者として知られ、社会主義のウェールズ語合唱団のメンバーでもあった。

 

昨年、グウェノーは、ウェールズ地方の独特な民族衣装のような派手な帽子、そして、同じく民族衣装のようなファッションに身を包み、シーンに名乗りを上げようとしていた。それはいくらか、フォークロアに根ざした幻想文学、さらに、喩えとして微妙になるかもしれないが、指輪物語のようなファンタジー映画、RPGのゲームからそのまま現実世界に飛び出てきたかのような独特な雰囲気を擁していた。しかし、そういったファンタジックな印象と対象的に「Tresor」では、その表向きな印象に左右されないで、60、70年代の音楽に根ざしたノスタルジア溢れるポピュラー・ミュージックと現代的なエレクトロ・ポップが見事な融合を果たしている。

 

グウェノーは昨年、新作アルバム『Tresor』を発表している。これらの曲の殆どは、ウェールズの固有の言語、コーニッシュ語で歌われるばかりでなく、フォークロア的な「石」における神秘について歌われている。英語とはまったく異なる語感を持ったポピュラー音楽として話題を呼び、アイリッシュ・タイムズで特集が行われたほか、複数の媒体でレビューが掲載された。このアルバムは、直近のその年の最も優れたアルバムを対象にして贈られるマーキュリー賞にもノミネートされている。グウェノー・ピペットが歌詞内で使用するコーニッシュ語は、中世に一度はその存続が危ぶまれたものの、19,20世紀で復活を遂げた少数言語の一つである。この言語の文化性を次の時代に繋げる重要な役目を、このシンガーソングライターは担っている。


Recommended Disc 

 

『Tresor』 2022/Heavenly Recordings

 


 

 2.Ásgeir -アイスランドの至宝、フォーク/ネオソウル、多様な側面から見たアイスランドという土地-

 


すでに90年のビョーク、シガー・ロスからその兆しは見られたが、アイルランドよりもさらに北に位置するアイスランド、とりわけこの国家の首都であるレイキャビクという海沿いの町から多数の重要なアーティスト台頭し、重要なミュージック・シーンが形成されるようになった。

 

特に、この両者の後の年代、2000年代以降には、オーケストラ音楽とポピュラー音楽を架橋するポスト・クラシカル/モダン・クラシカル系のアーティストが数多く活躍するようになった。映画音楽の領域で活躍したヨハン・ヨハンソンに始まり、それ以後のシーンで最も存在感を見せるようになるオーラヴル・アルナルズ(Kiasmos)もまた、レイキャビクのシーンを象徴するようなアーティストである。クラシカルとポップというのがこの都市の主要な音楽の核心を形成している。

 

そんな中、近年最も注目を浴びるシンガーソングライターが登場した。 2010年代にミュージック・シーンに華々しく登場し、アイスランドで最も成功した歌手と言われるアウスゲイルである。彼は華々しい受賞歴に恵まれ、デビュー作『Dyro i dauoapogn』が、同国で史上最速で売れたデビュー・アルバムに認定、アイスランド音楽賞主要2部門(「最優秀アルバム賞」、「新人賞」)を含む全4部門受賞したことで知られる。フォーク・ミュージックとポップス、さらにはR&Bを融合させた音楽性が最大の魅力である。また、アウスゲイルは、アイスランドでは、ほとんど国民が彼のことを知っているというほど絶大な人気を誇る国民的歌手である。

 

アウスゲイルは、基本的には英語を使用するアーティストであると断っておきたいが、そのうちの複数の作品は、母国語の口当たりの良いポップスをアイスランド国内向けに提供している。

 

昨年には、主題をフォーク/ネオソウルに移した快作『Time On My Hands』もリリースした。必ずしもアウスゲイルは、アイスランド語の歌詞にこだわっているわけではないが、その音楽性の節々には、モダン・クラシカルの要素とアイスランド特有の情緒性が漂っている。


Recommended Disc 

 

『Dýrð Í Dauðaþögn』 2015 /One Little Independent



 


3.Naima Bock   -ブラジルからイギリスを横断した国際性、ポルトガル語を反映するシンガー-

 


 

ナイマ・ボックは、現在、イギリス/ロンドンを拠点に活動するシンガーソングライター。元ゴート・ガールのメンバーでもあったが、バンド活動でのステージングに限界を感じ、一度はミュージシャンとしての活動を断念する。大学で考古学を学んだ後、庭師として生計を立てた後に、ソロミュージシャンへと転向している。

 

2021年11月には、米国シアトルの名門レーベル”Sub Pop"と契約を交わしたが、これはサブ・ポップ側のスタッフがこのアーティストにライセンス契約の提案をしたことから始まったのである。昨年には二作のシングル「Every Morning」「30 Degress」を発売した後に、デビュー・アルバム『Giant Palm』のリリースしている。またアルバムはStereogumのベストリストに選出された。


ナイマ・ボックの音楽は幼少期、彼女が両親とともにブラジル/サンパウロに滞在していた時代の音楽に強い触発を受けている。サンパウロの海岸沿いを家族とともにドライブした経験、その時に聴いていたブラジル音楽はこのアーティストの音楽に強い影響を与えている。ただ、アーティスト自身はどうやら自分の音楽について単なるブラジル音楽ではないと解釈しているので、南米文化と継承者と銘打つのは誇張になってしまうかもしれない。ただし、少なくともデビュー・アルバムでは、明らかにブラジルの音楽の影響、南米の哀愁が漂っていることはつけくわえておかなければならい。

 

ボサノバ、サンバをはじめとするブラジルの民族音楽の影響を織り交ぜたポピュラー/フォーク音楽は、地域性に根ざしているが、それらの品の良い音楽性を加味し、ナイマ・ボックさ英語やポルトガル語でさらりと歌い上げてみせている。情熱的な雰囲気も擁するが、それはまた同時に涼し気な質感に彩られている。時代を問わない普遍的なポップやジャズの雰囲気に加えブラジルの海岸沿いの穏やかな風景、その時代の記憶や南米文化への仄かな哀愁がレコード全体に漂っている。ボサ・ノバは、以前、日本でも小野リサを初めブームが来たことがあったが、スタン・ゲッツを始めとするオリジナル世代のボサ・ファンも、この新味を感じさせるレコードには何らかの親近感を持ってもらえるだろう。


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『Giant Palm』 2022/ Sub Pop

 



 

4.Sandrayati   -インドネシアのシンガーソングライター、-アジアの世界的な歌姫へのステップアップ-

 


現在のところ、大きな話題にはなっていないが、これまで注目されてこなかった地域の一であるインドネシアの歌手、サンドラヤティは、大手レーベル”Decca”と契約を交わし、近日メジャー・デビューを控えている。

 

英/デッカは、基本的にはクラシカル系の名門レーベルとして知られ、ロンドン交響楽団の公演をはじめとするクラシック音楽関連のリリースで名高い。しかし、今回、ポピュラーミュージックに属する歌手と契約したということはかなり例外的な契約といえ、このサンドラヤティというシンガーに並々ならぬ期待を込めていることの証となるかもしれない。また、近年、以前にも紹介したが、日本や韓国以外にも、マレーシアやシンガポールを中心に東南アジア圏で活発なミュージック・シーンが形成されつつある。これらの地域には専門のレコード・レーベルも立ち上がるようになっているので今後、面白い音楽文化が出てきそうな気配もある。特にこれらの南アジアの国の若者の間では日本のシティ・ポップがごく普通に流行っていたりするのだ。

 

近日、デッカからデビューするサンドラヤティは、フィリピン人とアメリカ人のハーフであるという。アーティスト写真の佇まいを見る限り、日本や韓国といった東アジア圏には(沖縄の最南端の島嶼群や奄美大島近辺の歌手をのぞいて)存在しないような南国情緒に溢れる個性派のシンガーソングライター。その歌声や作曲能力の是非は、まったく未知数だと言えるが、東インドネシアの固有の民族、モロ族の文化性を受け継いでいる希少なシンガーだ。また、サンドラヤティは環境保護活動にも率先して取り組んでいることも付記しておきたい。

 

昨年は、ダミアン・ライスやアイスランドのアーティスト、ジョフリズール・アーカドッティルとコラボレーションし、ホンジュラスの環境活動家であり先住民族のリーダーでもあるベルタ・カセレスへの力強いトリビュート「Song for Berta」を発表し、このテーマにさらに磨きをかけている。また、最新の国連気候変動会議(通称Cop26)では、アジアを代表してパフォーマンスを行った。ときにインドネシアの固有の言語を織り交ぜ、壮大なスケールを擁するポピュラー・ソングを発表している。3月17日に発表されるグラミー賞アーティスト、オーラブル・アルナルズが全面的にプロデュースを手掛けた2ndアルバム『Safe Ground』は、世界デビューに向けての足掛かりの作る絶好の機会となりそうである。

 

 

 Recommended Disc 


Sandrayati 『Safe Ground』 2023年3月17日発売/Decca

 

 


 

5.Nyokabi Kariũk -アフリカの文化性の継承者、スワヒリ語を駆使するシンガーソングライター-

 


 

ケニア出身で、現在、ニューヨークを拠点に音楽活動を行う作曲家、サウンド・アーティスト、パフォーマーと多岐の領域で活躍するNyokabi Kariũkは、これまで忘れ去られてきたアフリカの文化圏の言語、そしてその土地固有の音楽性に脚光を当てるシンガーで、まさに今回の特集にもっともふさわしい音楽家といえるだろう。Nyokabi Kariũkは、アフリカ音楽とモダン・クラシカルという対極にある音楽性を融合し、ニューヨーク大学での作曲技法の学習をもとに、それらを電子音楽や声楽といった形として昇華させ、これまで存在しえなかった表現を音楽シーンにもたらそうとしている。

 

 Nyokabi Kariũkは、2ndアルバム『Feeling Body』の発売を間近に控えている。あらためて発売を目前におさらいしておきたい歌手である。


Nyokabi Kariũkiの音楽的な想像力は常に進化しつづけており、クラシック・コンテンポラリーから実験的な電子音楽、サウンドアート、ポップ、映画、(東)アフリカの音楽伝統の探求など、様々なジャンルを横断する。ピアノ、声、エレクトロニクス、アフリカ大陸の楽器(特にカリンバ、ムビラ、ジャンベ)を使って演奏する。Nyokabiの作品は多くのメディアによって称賛されており、The Gurdianは「巧み」、The Quietusには「超越的」と評された。また、Bandcampは「現代の作曲と実験音楽における重要な声となる」と強調する。彼女は、アフリカ思想、言語、物語の保存と考察によって照らされた芸術表現を新たに創造しようとしている。


2022年2月にリリースされたデビューEP「peace places: kenyan memories」は、Bandcampの「Best Albums of Winter 2022」とThe Guardianの「Contemporary Album of the Month」に選出されたほか、Pitchfork、Resident Advisor、The New York Timesから称賛を受けた。同年9
月、Nyokabiは、EPの再構築を発売し、Cello Octet Amsterdam、パーカッショニスト兼電子音楽家のMatt Evans、ボーカリストAlev Lenzと共に演奏したことで話題を呼んだ。

 

彼女は、ニューヨーク大学(2020年)で作曲の学士号とクリエイティブ・ライティングの副専攻を取得し、ジェリカ・オブラク博士に作曲を、デヴィッド・ウォルファートに作詞を学ぶ。パリ・エコール・ノルマル音楽院でローマ賞受賞者ミシェル・メレの下で作曲とオーケストレーションを学び、フランス・パリのIRCAMでコースを修了。フリーランスの作曲家として活動する傍ら、Bang on a CanのFound Sound Nation(ニューヨーク)では、音楽におけるクリエイティブなコラボが地域や集団の社会問題にどのように対処できるかを調査している。また、"The One Beat Podcast"のプロデュースや、その他の多くの取り組みにも参加している。


Recommended Disc 

 

『Feeling Body』 2023年3月3日発売/Cmntx



 

幾何学模様 12月3日のラストライブ 渋谷WWW Xにて
 

日本のサイケデリック・ロックバンド、Kikagaku Moyo(幾何学模様)が12月3日に行われたファイナルツアーでのラストライブの映像を公開しました。バンドは、浅草のつばめスタジオで録音されたフルアルバム『Kumoyo Island』の発表と同時に、2022年度の活動をもって解散を公表しています。

 

近年では、ヨーロッパに活動拠点を移していましたが、パンデミックを契機に日本へ帰国し、レコーディングが行われました。

 

また、幾何学模様は、昨年の年始め、ファイナルツアーに向けて次のようなメッセージをファンに捧げています。

 

昨年末、5人で話し合った結果、2022年以降、無期限で活動休止することになりました。つまり、2022年がキカガクモヨウとしての最後の年になります。

バンドとしての本懐を遂げたからこそ、このプロジェクトを最高の形で終わらせたい、という結論に至りました。2012年に東京の路上で音楽集団として活動を始めてから、世界中の素晴らしい観客のために演奏できるようになるとは想像もしていませんでした。このようなことが可能になったのは、すべて皆さんのおかげです。


幾何学模様 ファイナル・ツアー、2022年ロンドンにて

 

2012年に東京の路上でバスキングをしていた彼らは、文字通り、そして比喩的に、長い道のりを歩んできた。

 

自由に演奏し、宇宙やサイケデリカに関連する音楽を探求したい、という願望で結ばれた5人の友人からなる緊密なグループであり、彼らの最初の野望は、東京の孤立した音楽シーンの狭いクラブで準レギュラーを務めるというささやかなものであった。


しかし、そのプログレッシブでフォークの影響を受けたサイケデリカは、同世代のバンドとは一線を画し、日本のサイケロックシーンを再スタートさせ、国際的な賞賛を得るに至った。


Go Kurosawa(ドラム、Vox)、Tomo Katsurada(ギター、Vox)、Kotsuguy(ベース)、Daoud Popal(ギター)、Ryu Kurosawa(シタール)という落ち着いたラインアップと、インド古典音楽、クラウトロック、伝統民族、70年代ロック、アシッドテイストの心理をブレンドした独自のサウンドで、ヨーロッパ各地でライブをソールドアウトし、自分たちの仕事だけでなく東アジアの音楽シーンも紹介しようとレーベルGuruguru Brainを創設した。


現在までに、このレーベルは自分たちのアルバムと並行して10人以上のアーティストの楽曲をリリースしており、2017年にはKurosawaとKatsuradaの二人がオランダのアムステルダムに恒久的に移住した。この移転により、キカガクモヨウとグルグルブレインは、ヨーロッパの中心に位置し、欧米のオーディエンスに対応しつつ、レーベルに所属するバンドの長期ツアーやリリーススケジュールのロジスティックな課題を緩和した。


それ以来、彼らの人気は高まり続け、キカガクモヨウは今やオルタナティブ・サイケ・シーンで最も高く評価されるバンドのひとつとなった。

 

ボナルー・ミュージック・フェスティバル(アメリカ)、エンド・オブ・ザ・ロード・フェスティバル、グリーンマン・フェスティバル(イギリス)、コンクリート&グラス(中国)などの有名フェスティバルをはじめ、グッチやイッセイ・ミヤケなどの世界的なファッションブランドからも依頼を受け、ワールドツアーを多数敢行した。アルバム『Masana Temples』はMojoやUncutから高い評価を得ており、バンドは有名なラジオ局KEXPに招待され、彼らの有名なライブセッションで演奏した。



 KIKAGAKU MOYO FINAL SHOW ー「Yayoi, Iyayoi」

 



 Jockstrapは、Georgia Ellery(Black Country, New Roadのメンバーでもある)がGuildhall School Of Music & DramaでTaylor Skyeと出会い、それぞれジャズと電子音楽作曲を学んでいたことから2017年に結成された。


一般的に彼らの音楽スタイルは、オルト・ポップで、音楽における革新性と再構築に焦点が当てられている。


時には既存のスタイルを嬉々としてバラバラにし、それを巧みに組み直すだけのポップ・ミュージックを、時には全く新しいジャンルを作り変え、空間的・時間的に激しく混乱した形で制作する。デュオとしたのかつての役割分担は、ジョージアが作曲、作詞、歌唱を担当し、テイラーがプロデュースするというシンプルな役割分担だったというが、今ではその境界線があいまいになりつつある。


二人ともクラシック音楽を演奏しながら育ち、大学でジャズに目覚めたという。初期のアニー・マックのコンピレーションCDやミカ・リーヴァイ、テイラーはボブ・ディラン、ジョージアはジョニ・ミッチェルに傾倒するなど、共通の趣味を持っている。彼らは過去5年間にシングル、EP、ミックステープをリリースしており、すでにプレスの間で話題になっている。ジョージアはロックンロール以前のクラシックなオーケストララウンジポップを歌い、テイラーはそれを古いものと新しいものを混ぜ合わせたポストダブステップのミキサーで無理やり演奏する。


ロンドンを拠点に活動するデュオ、jockstrapは、自分たちの名前がかなり偏ったものであることを認めている。プロデューサー兼キーボードプレイヤーのTaylor Skyeは、「この名前は完璧だと言う人もいる」と語る。プロデューサー兼キーボードプレイヤーのTaylor Skyeは言う。「ひどい名前だと言う人もいる。もともと反抗的な名前だったから、僕らにとっては刺激的だったんだ」


その反抗は、2016年に2人が出会ったギルドホール音楽演劇学校でスカイとシンガー/ヴァイオリニストのジョージア・エラリーに植え付けられたアカデミックな音楽的価値観を一部拒否することが含まれていた。前者は電子作曲を、後者はジャズを学んでおり、彼らがJockstrapとして作り始めたスタイル的に落ち着きのない音楽--伝統的なシンガーソングライティングのアプローチとダブステップに影響を受けたカットアップの間を激しく行き来する--は、一部の講師にとっては冗談にしか見えなかったという。


このプロジェクト名を聞いた時、その反体制的な意図はなかなか伝わらなかった。アカデミックに音楽媒体を学ぶ人たちにとっては、そういった主流に対する反駁を唱えることは理解できるが、それは体型的な音楽教育を指導する人々には受け入れ難いものだったのだ。「私の先生たちは鼻を高くしてせせら笑っていた」とエラリーは言う。彼女はブラックカントリー、ニューロードでも演奏していることでも知られていますが、「音楽学校に行って、勉強している楽器のためにすべての時間を捧げるという考え方があるんです。でも、私はそうしたくはなかった。だから、そこが彼らを怒らせてしまったのかもしれない」と回想するのだ。


2人のデビューLP『I Love You Jennifer B』(MOJOの2022年のベストアルバムで36位)には2人のそういった反体制的な意図がたしかに汲み取ることができる、しかし、そこには体型的な音楽教育を受けた作り手にしか生み出し得ないものもある。ジョックストラップのデビュー作は、確かにエキセントリックなユーモアと意図的にクランチしたギアシフトに満ちているが、同時に彼らの正式な音楽教育は、綿密なストリングスのアレンジとクラシックな曲作りという手法にも表れている。これは、Elleryにとって音楽理論は、「ハーモニー的に次にどこへ行くかを考えるためのツール」であり続けていることの表れでもある。


Jockstrapのサウンドに直接影響を与えたものを特定するのは難しいが、幼少期のSkyeがStevie WonderとSkrillexに夢中になっていたことがひとつの手がかりとなるはずた。一方、Elleryは5歳でヴァイオリンを習い始め、7歳までに助産師兼音楽セラピストの母親とバンドを組み、故郷ペンザンスの「異教徒の祭り」をGolowanで演奏し、母親と一緒にWOMADにも出演していた。また、エルトン・ジョンやポール・サイモン、スコット・ウォーカー(アルバムのスペクタルなバラード「Lancaster Court」はスコット3世の影響を受けている)、初期のジョニ・ミッチェル(もし彼女がジェームズ・ブレイクのプロデュースを受けていたら)、6分ほどの「Concrete Over Water」にインスピレーションを受けたと語っている。


このデュオの手法では、Elleryが曲を書いて録音し、それをSkyeに渡して補強し、音的に磨きをかけたり、こねたりしてもらう、リミックスの過程がある。例えば、ハープを使った浮遊感のある「Angst」は、突然、Skyeが10代の頃に好きだったダブステップのリミキサー(NeroやFlux Pavilion)のスタイルで不規則に刻まれたシンガーのアカペラボーカルにスナップエッジされている。「彼らは、リミックスという形で完全にオリジナルでエモーショナルな音楽を作ることができるということに気づかせてくれたんだ」とTaylor Skyeは言う。


ビジュアル面でもJockstrapは印象的だ。彼らのビデオ(Elleryが編集)は、80年代初期のKate BushのプロモーションビデオのようなConcrete Over Waterの奇妙なハーレクインのおふざけから、漫画風の顔の毛ととがった耳をつけたSkyeが登場するGlasgowの歩き回るシーンまで、そのユニークさは多岐にわたっている。エラリーは、「本当にいいリリースになった」と言う。「曲の制作に一生懸命になり、非常にマクロな作業をした後、逆にストレッチしているような感じです。僕たちはビデオ制作の訓練を受けていないから、何でもありなんだ」


ロンドンのJockstrapはまだ今年デビューを果たしたばかりの新進エレクトロ・デュオ。しかし、その前衛的なアプローチには瞠目すべき点がある。これからどのような活躍をしていくのか、また、斬新な音楽を生み出してくれるのか目が離せないところである。


チャールズ・ロイドは遂にトリオ三部作を完結させた。60年以上にわたり、この伝説的なサックス奏者兼作曲家は音楽界に大きな影響を及ぼしてきたが、84歳になった今も彼は相変わらずの多作ぶりを見せている。


音の探求者であるロイドの創造性は、彼の最新の代表作、異なるトリオのセッティングで彼を表現する3枚の個別アルバムを包含する拡張プロジェクト、トリオ・オブ・トリオ以上に発揮されることはないと思われる。


最初のアルバム「Trios: Chapel」では、ギタリストのビル・フリゼールとベーシストのトーマス・モーガンと共にロイドをフィーチャーしています。2枚目はギタリストのアンソニー・ウィルソンとピアニストのジェラルド・クレイトンとの「Trios:  Ocean」。3枚目は、ギタリストのジュリアン・レイジとパーカッショニストのザキール・フセインとの「Trios:Sacred Thread」となる。


かつて故ジョーン・ディディオンが指摘したように、ほとんどの個人の声は、一度聞けば、美と知恵の声であることがわかる。ロイドはその典型です。1980年代にツアーとレコーディングに復帰し、高い評価を得て以来、彼の演奏はますますスピリチュアルとしか言いようのない要素を獲得し、聴く者を彼の音楽に引き込む実存的な要素を持つようになった。気取らず、知的すぎず、ロイドが「私たちの土着の芸術形式」と呼ぶものを創り上げた偉大なジャズの長老たちの伝統を尊重しており、「シドニー・ベシェ、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、プレッツ、レディ・デイ、バード、そして現代人たち」のような人物を挙げている。テイタム、トラン、ソニー、オーネット、モンク、マイルズといった現代人が彼の道を照らしてくれた。


10代の頃、ブルースの巨匠たち、ボビー・ブルー・ブランド、ロスコー・ゴードン、ハウリン・ウルフ、B・B・キング、ジョニー・エースと一緒に演奏した時の経験が、私のルーツになっています。多くのミュージシャンが演奏できるのに、彼らの音楽はバンドスタンドから離れない。それが僕にとって大きな教訓になった」


例えば、『The Sacred Thread』は50年代後半に生まれたものであり、その原点となった出会いは、ロイドの音楽において過去の経験が現在を照らし出すことが多い。「南カリフォルニア大学で勉強していたとき、ラヴィ・シャンカールとアッラ・ラーカがよく来ていたんだ。 「音楽だけでなく、タゴールのような詩人やミラレパのような聖人も。その後、ラマクリシュナやヴェーダンタに出会いました。また、サロード奏者のアリ・アクバル・カーンにも深い感銘を受けました。彼の息子のアシシュとプラネシュは、私のアルバム『ギータ』に参加しています」。1973年に発売されたこのアルバムは、ビルボード誌で「インド音楽が自由な流れのモダンジャズと巧みに融合している」と評された。


「ジョン・マクラフリンがUCLAでのコンサートに私を招待してくれた。ジョン・マクラフリンの音は美しく、私は彼らが一緒に作っている音楽にとても感動しました。ザキール(・フセイン)のタブラを聴いて、ハウリン・ウルフに戻ったんだ。どうやったら、その例えができるのか、ジャンプできるのかわからないけど、若い頃ハウリン・ウルフと演奏したとき、私は震えたんだ。ザキールとは2001年に初めてコンサートで共演したのですが、その時、USCでラヴィ・シャンカールと共演しているのを見たアラ・ラーカが彼の父親であることを知りました。それをプロビデンスと呼ぶこともできるし、私はそれをセイクリッド・スレッドと呼んでいる」


   


2020年9月26日、パンデミックの真っ只中、ロイドはカリフォルニア州ソノマ郡のワインカントリー、ヒールズバーグのThe Paul Mahder Galleryでバーチャルオーディエンス向けのコンサートをストリーミング配信した。フサインとギタリストのジュリアン・ラージが加わり、ロイドは「ミュージシャンと観客の間のエネルギーや交流がなくなる一方で、拍手によって中断されることのない集中力と集中力がある」と観察している。


「彼はヒールズバーグからそれほど遠くないところで育ち、天才と呼ばれていた。彼は大きな耳を持っていて、私は彼の可能性を聞き出した。彼はまだ若く、その耳は大きくなるばかりです。だから、私は自分の道を見つける魂に祝福され続け、今でも高いワイヤーに乗り、空を飛ぼうという気にさせられるんだ」


トリオ・オブ・トリオス3部作の最終幕となる「Trios:Sacred Thread」は、パーカッションとヴォーカルを使用した唯一のアルバムである。


フセインのタブラと声は、音楽的、感情的な雰囲気を一変させ、エキゾチックなスパイスのように、インド亜大陸の強い音楽の香りを加えてくれる。「ザキールの声を聴くのが大好きなんだ」とロイドは言う。「僕らの音楽に魅惑的な響きを与えてくれるんだ」。ロイドは、インドのラーガや音階を演奏するのではなく、Geetaで行ったように、即興演奏を通してインド音楽とアメリカのジャズとの共通点を探っている。テナーサックスよりもアルトフルート、そしてタロガトーという哀愁を帯びた木管楽器に頼りながら、フセインはタブラ(通常4〜5種類の大きさのタブラとカントラ)を駆使して音楽の波と流れを媒介するのである。


ロイドのテナーサックスでムード、テンポ、キーが決まる「Desolation Sound」では、ラージのハーモニックスの使い方が完璧で、そのあとロイドが再びアルトフルートに入り、軽い音色で音楽のムードを盛り上げる。フセインの歌声を紹介するエピソードに入ると、グループのダイナミックさが一変する。「グマン」は "グル "へのプラナム、「ナチェキータの嘆き」へとテンポを変え、タラガトーの音色に声が響くようになる。音楽、芸術、知恵の女神であるサラスワティへの献身を歌った "サラスワティ "ではフセインの声が雰囲気を和らげ、ロイドが再びフルートを担当した "クティ "ではラゲの巧みな介入を促している。


「ルミの物語」はフセインのタブラとカンジラのソロをフィーチャーしたものである。タブラはドラムの音の中で最も表現力が豊かな楽器として知られ、32音という幅広い音色を持つが、フセインはこれを見事に使いこなしている。テナーのロイド、ギターのラゲとともに、音楽の沈黙を「演じる」ことを恐れず、Sacred Threadの本質をとらえるような瞬間を創りだす。ロイドの「The Blessing」は、1983年7月のモントルー・ジャズ・フェスティバルでピアノのミシェル・ペトルチアーニと録音したもので、雄弁でありながら控えめな、魅力的なコンサートのクライマックスとなる曲である。


トリオ3部作の演奏を振り返り、ロイドは次のような洞察を述べている。


「その音(ノート)を探す中で、私たちの個性が普遍性と融合し、いつのまにか出会っている。その固有性はとても強力であり、私たちが知っている世界を青ざめさせる。"絶対的なものの中にいたのに、相対的なものに戻るのはそう容易いことではない "と。興味深いことに、アポロ12号で月面を歩いたアラン・ビーンもまた、絶対的な世界に行った体験について、それはあなたを変えるのではなく、あなたが誰であるかを明らかにするんだ、と言っているんだ」





 Chales Lloyd 『Trios: Sacred Thread』



Label: Bluenote

Release: 2022年11月18日


 Official-order:


https://charleslloyd.lnk.to/TriosSacredThreadID