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Rafael Anton Irisarri  『Midnight Colours』 (Remastered)

 

 

Label: Black Knoll Editions

Release: 2024/02/ 09


Review

 

ニューヨークの気鋭のプロデューサーが示す「終末時計」


 ニューヨークのエレクトロニック・プロデューサー、ラファエル・アントン・イリサリはアンビエントシーンの中心人物として知られ、その作風は幅広い。最初期はピアノを基調とするポスト・クラシカルや、活動中期に入ると、ノイズ・アンビエント/ドローンの音楽性を押し出すようになり、ときにそれは純粋なノイズ・ミュージックという形でアウトプットされる場合もある。


 アーティストはウィリアム・バシンスキーや坂本龍一など、最もニューヨーク的なアンビエントを制作することで知られる。イリサーリの音楽性の核心をなすのは、ゴシック/ドゥーム的とも言えるメタリックな要素であり、それらがノイズの形質をとって現れる。例えばGod Speed You ,Black Emperorのようなポスト・ロックのインストともかなり近いとうように解釈出来るわけである。もちろん、カナダのバンドのように、現実的な神話の要素を内包させていることも、それらの現実性を何らかの難解なメタファーにより構築しようというのも共通項に挙げられる。


 このアルバムは長らく廃盤になっていた幻の作品の再発である。以前の作品と同様に、難解なテーマが掲げられている。『Midnight Colours』は単なるアルバムをはるかに超えた、人類と時間との間の謎めいた関係の探求である。世界の存亡の危機を象徴する「終末時計」の音による解釈として構想されたイリサリの作品は、リスナーに私たちの存在の重さと、それを包む微妙なバランスについて考えるよう招来している。「夜の影の中に共存する不安と静謐な美しさの両方、時間と人間の関係の本質を捉えたかった」とイリサリは説明する。「ヴァイナル・フォーマットは、リスナーに音楽と物理的に関わるように誘い、体験に触覚的な次元を加える」

 

 いわば、純粋な音源というよりも、フロイドやイーノ、そして池田亮司のような音と空間性の融合に焦点が絞られている。そういった楽しみ方があるのを加味した上で、音楽性に関しても従来のイリサリの主要作品とは異なるスペシャリティーが求められる。ノイズ、ドローンの性質が強いのは他の作品と同様ではあるものの、イリサリの終末的なエレクトロニックの語法は、1つの音の流れや作曲構造を通じて、壮大なアプローチに直結する。音の流れの中に意図的な物語性を設け、それらをダニエル・ロパティンの最新作のように、エレクトロニックによる交響曲のように仕上げるという点は、今作にも共通している。それが最終的にバシンスキーのようなマクロコスモスを形成し、視覚的な宇宙として聞き手の脳裏に呼び覚ますことも十分ありうる。


 「The Clock」では、『インディペンデント・デイ』で描かれるような映画的な壮大なスペクタルを、エレクトロニック、アンビエント、ドローンという制作者の最も得意とする手法によって実現させていく。それはやはり、米国的なアンビエントといえる。Explosions In The Skyのようなポストロックバンドにも近似する作曲法によって重厚感のあるアンビエントが構築される。

 

 しかし、ウィリアム・バシンスキーの直近のアンビエントと近い宇宙的な響きが含まれていることを踏まえた上で、近年のイリサリの作品とは明らかに異なる作風が発見出来ることも事実である。まず、この曲にはドゥームの要素はほとんど見いだせず、アンビエントの純粋な美しさにスポットライトを当てようとしている。そして、「Oh Paris, We Are Fucked」ではより静謐なサイレンス性に重点を置いた上で、その中に徐々に内向きのエネルギーを発生させる。これは近年の作風とは明瞭に異なる。しかし、一貫してノイズに関してのこだわりがあるのは明確なようで、曲の中盤からは静謐な印象があった序盤とは正反対にノイズが強められる。そして雑音を発生させるのは、美麗な瞬間を呼び起こすためという美学が反映されていることがわかる。この点において、オーストリアのFennes(フェネス)と近い制作意図を感じることが出来る。



 そして、最近のウィリアム・バシンスキーの近未来的なアンビエントに近い雰囲気のある音楽性も続く「Circuits」に見いだせる。この曲では、アントン・イリサリとしては珍しく、感覚的な音楽を離れて、より理知的なイデアの領域へと近づいている。その中に内包される終末時計という概念は、よりこのアンビエントのイデアを高め、そしてそれらの考えを強化している。


 しかし、イリサリにとっての終末的な予感とはディストピア的なものに傾かず、より理想的で開けたような感覚を擁するアンビエントの形に繋がっている。これがつまり、恐ろしいものではなく、その先にある明るい理想郷へと聞き手を導くような役割をもたらす可能性を秘めている。

 

 さらにイリサリのアンビエントとは一風異なる音楽も収録されていることは心強い。「Every Scene Fade」はホワイトノイズを交えながら、ダブステップのようなダンスミュージックの要素を突き出した珍しい曲である。ここにはホーム・レコーディングの制作者ではなく、実際のフロアでの演奏者/DJとしてのアーティストの姿を伺える。しかし、それらのリズム的な要素は、抽象的なアンビエントをベースにしており、やはりオウテカのようなノンリズムによって昇華される。サウンドスケープの抽象性に重点が置かれ、カルメン・ヴィランのようなリズム的な要素が主体となることはほとんどないのである。そして、それらはやはり、ドローンを中心点として、パンフルートのような枯れた音色や、ストリングの音色を通じて、驚くほど明るい結末を迎える。近年では、暗鬱な音楽が中心となっている印象があったが、この曲ではそれとは対極にある神々しさが描かれる。それはイリサリの従来とは異なる魅力を知る契機となるに違いない。


 他にも意外性のある楽曲が収録されている。「Two and Half Minutes」ではダニエル・ロパティンのようなミニマル音楽のアプローチを取っているが、これはこれまでのイリサリのイメージを完全に払拭するものだ。これまでのダーク・アンビエントとは対象的に、祝福的なイメージを短いパルス状のシンセによって描き出そうとしている。これもまた鮮烈なイメージを与えるはずだ。従来と同様、ノイズ・アンビエントとしての究極系を形作るのが「Drifting」となる。旧来のゴシック/ドゥームの枠組みの中で、ギター演奏を取り入れ、抽象的なサウンドを構築していく。ドビュッシーの「雲」のように、それまで晴れ渡っていた空に唐突に暗雲が立ち込め、雲があたり全体を覆い尽くすようなサウンドスケープを呼び覚ます。アンビエントは手法論としての音楽とは別に、音楽そのものがどのようなイメージを聞き手に呼び覚ますのかが不可欠な要素であり、それをイリサリは自らの得意とする表現方法により構築していくのである。

 

 そして、イリサリはアンビエントを一つの手段とは考えていないことも非常に大切であると思う。上述した「Oh Paris, We Are Fucked」と同じように、制作者の考える「美しいものとは何か?」という答えらしきものが示されている。結局のところ、アンビエントは、制作手段が最も大切なのではなくて、何を表現したいのか、それを表現するための精神性が制作者にしっかりと備わっているのかどうかが、音楽性を論ずる際に見過ごすことの出来ぬ点である。それが次いで、聞き手のイメージをしっかりと呼び覚ます喚起力を兼ね備えているかというポイントに繋がってくる。これらの作曲性はリマスターによって荘厳で重厚感のある音楽へと昇華される。

 

 クローズ曲は、イリサリの最高傑作であると共に、「電子音楽の革命」と称せるかも知れない。本曲でのアンビエントは、「終末時計」という制作者の意図が明瞭に反映されている。それは映画に留まらず、オーケストラの弦楽に比する重厚な響きを形成するに至る。もしかすると、イリサリは今後、映画音楽やオーケストラとの共演等を行う機会が増えるかもしれない。もしそうなったとき、アンビエントの先にある、未来の音楽が作り出される可能性が高い。本作は音楽の過去ではなく、音楽の未来を示唆した稀有なエレクトリック・ミュージックなのだ。

 

 

 

86/100 

 

Itasca 『Imitation of War』 

 

 

Label: Paradise of Bachelors

Release: 2024/02/09

 

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現実に近づき過ぎないことの大切さ

 


 ロサンゼルスのシンガー、Itascaことケイラ・コーエンによる最新作『Imitation of War』は作品のコンセプトの中に神話的なモチーフを織り交ぜながら、抽象的な表現を通じて、物語の核心に迫ろうと試みる。実際にアルバムには次のようなナラティヴなテーマが掲げられている。

 

悪魔が仕掛けた罠だったのか?/ そして私はその罠にはまった/ 私は聖人だった/ 礼拝堂の壇上で/ この戦争の模倣の中で/

 

 この寓話性は、ミューズ、聖人、悪魔に加え、エルドラド、キルス、オリオン等、不可解な暗示のシンボリズムが含まれている。しかし、これらの暗喩は、必ずしも非現実性に基づくというわけではないようだ。コーエンは2020年の秋、セコイア国有林に近いカルフォルニア州のパインフラットでバンドのガン・アウトフィットとレコーディングしはじめた時、森林火災がその日を暗闇に変えた。レッドウッドの上空にある月を不吉に覆い隠したり、消したりしたというのだ。

 

 Itascaのサウンドは、サッドコアやスロウコアに近いブルーな感情が中心となっている。それにモンゴメリーのようなジャズ・ギターを下地にし、パット・メセニーの最初期のジャズとフォークをクロスオーバーしたギターサウンドの影響を織り交ぜている。またそれはフランジャーを中心とするギター、ブルースを基調とするシンプルなベースライン、ジャズの影響を擁するドラムによってくつろいだバンドサウンドが組み上げられる。多重録音に柔らかい感覚をもたらすのがコーエンのボーカル。彼女のボーカルはどこまでも澄んでおり、内省的な雰囲気を擁する。

 

 オープニングの「Milk」を通して、ケイラ・コーエンは、抽象的なボーカルをバンドサウンドの上に乗せる。コーエンの声は、ウィスパーボイスに近く、スモーキーで、かすかな悲しみに彩られているが、それがギターラインのスケールの変化に合わせ、暗い雰囲気から明るい雰囲気へと揺動する。しかし、昂じたような明るさには至らず、かすかな憂いの合間に揺れ動く。それらの感情をもとにしたボーカルは、折々スポークンワードの技法を用いながら、バリエーションに富んだトラックとして昇華される。ギターの和音は演奏されず、純粋な単旋律がカウンターポイントをボーカルに対して形成する。コーエンのボーカルが消えやると、ブルースやブルースロックをベースに置いた渋い演奏が繰り広げられる。さながらクラプトンのように。

 

 ブルース・ロックのアプローチは、現代的なローファイ・サウンドと絡み合い、タイトル曲「Imitation of War」で最も洗練された形となる。70年代のロックの懐古的な響きは、同じく70年代の女性ボーカルのシンガーソングライターのような、ほのかな暗さを擁するが、その中に奇妙な癒やしが存在する。これらの感覚的な流れが、Real Estate(リアル・エステイト)のようなフランジャーを主体とするコアなギターサウンドと融合し、ノスタルジックなサウンドを作り出す。その中にはマージー・ビートや同年代のYESのプログレッシヴに触発されたようなギターラインの進行に導かれるようにして、ときに切ないような雰囲気を生み出しているのが見事である。


 これらの懐古的とも現代的ともつかない抽象的な音楽の方向性は、解釈の仕方によっては、Itascaの掲げる神話のテーマに上手く結びついているかも知れない。定かではないものの、前曲のプログレッシヴの要素は、インディーフォークやジャズの要素と結びつき、続くトラック「Under Gates of Cobalt Blue」の核心を形成する。この曲では、ギターの多重録音を駆使しながら、プログレッシヴやフュージョンのような70年代のもう一つの音楽性と結びついている。ただ、この年代のアーティストは、ほとんどが男性で占められており、女性シンガーはフォークミュージックに集中していたため、現代になって、こういった音楽を演奏することは、それ相応に意味があることなのではないかと思われる。そして、もちろん、コーエンのボーカルは、時代感を失ったかのように、それらの不明瞭な時代の流れの中を揺れ動き、柔らかい感情性を織り交ぜながら、最終的には、中期のビートルズを思わせるアートポップを作り上げていく。それらの曲のムードを高めているのが、フュージョン・ジャズを主体にしたギターラインである。このギターは稀にサイケに近づいたり、チルアウトに近づいたりし、定まることはない。さながらカルフォルニアの海のように、美しい陽を浴びながら、視界の果てにゆらめいている。

 

 アルバムの中盤の音楽性はパット・メセニーの最初期のカントリーとフォーク、そしてジャズ的な響きを擁する。それらにケイラ・コーエンのボーカルが入り、柔らかなトーンや響きを生み出す。「Tears on Mountain」では、本作の冒頭のようにエリオット・スミスのような繊細なサッドコア性を呼び覚ますが、コーエンの声は、70年代の女性シンガーのボーカル曲を思わせ、ノスタルジックな気分に浸れる。「Dancing Woman」ではカントリーの音楽性に近づき、ニューヨークのLightning Bugのボーカルーーオードリー・カンのようなオーガニックな雰囲気を生み出す。この曲では、ガン・アウトフィットによるものと思われるアコースティックギターのアルペジオを基調とするクラシックギターに近い気品のあるフォーク/カントリーを楽しめる。

 

 神話的なモチーフはアルバムの終盤になって現れる。「El Dorado」は、アメリカの黄金郷を意味する。これは特にメキシコに近いバンドの音楽に頻繁に現れることがある。Itascaは、南アメリカのテーマをチェンバーポップのアプローチ、つまりはメロトロンを駆使することで乗り越えている。フュージョン・ジャズ、近年のインディーフォークの要素を散りばめながら、やはり一貫して柔らかい質感を持つコーエンのオーガニックなボーカルが良い空気感を作り出す。


 定かではないが、アメリカの南部のロックバンド、Great Whiteを始めとするハードロックバンドが、80年代ごろに追い求めていた米国南部に対するロマンチズムが織り交ぜられている。これらの陶酔的な空気感は束の間のものに過ぎない。続く「Easy Spirit」では、目の覚めるような精彩感のある70年代のUSロックやブログレ的な音楽が展開される。特に、アンサンブルの妙が光る。ベース、ドラムの溜め、ブレイクの後の決めが心地よいグルーブを作り出し、ボーカルのメロディアスなアプローチと対角線上に交差する。それらはライブセッションのような形に繋がり、アルバムの序盤と同じく、クラプトンのバンドのようなブルージーな雰囲気を生み出す。

 

 アルバムの冒頭では、神話的なテーマが薄い気もするが、最終盤になると、その要素が強められる。ギターによる多重録音のサイケデリアは、ジャズ・フュージョンの音楽と合致し、「Moliere's Reprise」で花開く。メセニーに触発されたようなカントリー/フォークのギターは多重録音を介してサイケデリアという出口に繋がり、一貫してドリーミーな癒やしのアンビエンスによって柔らかく包まれている。米国南部的な神話は、やがてギリシア神話に対する興味を反映した「Olympia」で終焉を迎える。それはジム・オルークのようなアヴァンギャルド・フォークに近い音楽性によら包み込まれている。ガスター・デル・ソルのように内省的であり深淵な音楽性は、ギターの波長と同調するかのようなコーエンの瞑想的なボーカルを通じて、その可能性が最大限に引き上げられる。無論、深読みすることなく楽しめる音楽ではあることは自明だが、同時に、深読みせざるをえないようなミステリアスな雰囲気が本作の最大の魅力である。


 クローズ曲では、オープニングと同様に、コーエンによるスポークンワードを聞くことも出来る。何を物語ろうとしているのかまではつかないが、その最後はシュールな感じで終わる。それはあまり物事を真面目に捉えすぎないことの暗喩でもあるのだろう。傷つきやすさというのは、現実に近づき過ぎることから生ずるが、そこから逃れることも出来る。このアルバムは、現実性に基づきながらも、どことなく現実から一歩距離を置いたような性質を擁する。そういった意味では、厳格な現実主義者に別の出口を用意してくれるアルバムと言えるかもしれない。

 

 

 

84/100 

 

 

 Best Track 「Imitation of War」

  J Mascis 『What Do We Do Now』 

 



 

 Label: Sub Pop 

 Release: 2024/02/02


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 Review


 ベテランギタリスト、J Mascisによる爽快なオルタナティヴロック


 J マシスは、Dinasour Jr.としても、ソロアーティストとしても、音楽性が変わることがほとんどない。例えば、1987年に発表された三作目のアルバム『You Are Living All Over Me』を聴けばわかるが、ダイナソー Jr.の音楽性というのは、フェンダーのジャズマスター、テレキャスター等のシングルコイルのギターに、ビックマフ等のファズ・ギターのノイズを噛ませ、その上にJ マシス自身の瞑想的なボーカルラインを乗せるというもの。ルー・バーロウのエッジの効いたベース、ソングライティングも彼らの音楽の中核を担っていた。『Green Mind』で全米チャートで席巻する以前から、マシスはデビューアルバムを通じて、以後の時代の作風をしっかり踏み固めていた。

 

「Little Funny Things」の苛烈なディストーションギターでオルタナの台頭を大々的に予見し、さらに「In A Jar」では、彼自身のグランジとカントリーを織り交ぜたような比較的な聴きやすいライトな作風さえもあろうことか80年代後半に明示していた。次いで、90年代に入ると、グランジ・ロックの性質に交えつつ、マシスはアメリカーナにも挑戦するようになる。彼はアコースティックギターを手にし、『Green Mind』の「Flying Cloud」において、ニール・ヤングを彷彿とさせるカントリー/フォークの作風へと舵を取ったのだ。


その後、Dinasour Jr.のリリースは、以前の作風を洗練させるか、地固めをする意味を持っていたに過ぎないかもしれない。しかし、J マシスには、もうひとつ作曲家としての意外な性質があることは言っておかなければならないだろう。特に、卓越したテクニックを擁するギタリストとは別に、現在でいうところのオルタナティヴのソングライターとしての類まれなる才質に恵まれていたという事実は付記しておくべきなのだ。

 

例えば、J マシスのオルト・ロックの中には、同年代のパンク・ハードコアの台頭と並行し、エモに近い性質を持つ作曲を行っていた。これらのスタイルは、『Green Mind』の「Muck」、『Bug』の「Budge」で頂点を迎えた。そこにエモの源流であるエモーショナルハードコアの影響が含まれているのは、彼のバンドのカタログが証明している。現在はパンクの影響は少し弱まり、J Robbins(Jawbox)が数少ない継承者となった。しかし、少なくとも、J マシスは、明らかにパンクにルーツを持つ、コアなインディーロックギタリストであり続けて来たのだ。

 

マシス自身が話すように、『What Do We Do Now』は、彼がアコースティックのドラムの録音とバンド形式の作品に挑戦した作品である。全体的なソングライティングとしては、従来のソロでのフォーク/カントリーを基調としたリラックスした作風が主体となっているが、同時にギターソロを曲の中に織り交ぜながら、エンターテイメント性を追求したような作品になっている。

 

アルバムの作風を決定づけているのが、ニール・ヤングの『Harvest Moon』に象徴されるフォーク/カントリーとロックの融合だ。これらがダイナソー時代から培われてきたマシスの作曲と結びつきを果たし、オルタナティヴなUSロックとなるわけである。エレクトリックにアコースティックのギターを重ねていることも、音楽そのものにメリハリとダイナミックス性をもたらしている。


「Can’t Believe We're Here」はシンプルなアメリカン・ロックだが、やはり、その中にはピッチをずらして歌うマシスの往年のカントリーシンガーの影響を絡めたボーカルが心地良い雰囲気を醸し出す。ギター・ソロを織り交ぜ、まったりとした感覚と熱狂的な感覚を行き来するように曲は進んでいく。「What Do We Do Now」は比較的ゆったりとしたテンポでオープニングを補佐し、彼の得意とするシンプルなUSロックにより、くつろいだような雰囲気を生み出す。ボーカルに陶酔感と哀愁が漂うのは、かれの以前のバンド/ソロ作品と同様である。

 

アルバムの中盤では、フォーク・カントリーに根ざしたアメリカーナの音楽性の色合いが強くなっていく。例えば、 「You Don't Understand Me」では、ニール・ヤングの「Harvest Moon」に代表されるような、ロマンチックな雰囲気をフォーク・ロックの形によって示そうとしており、ペダルスティールというアメリカーナの主要な楽器、オルタナティヴロックギタリストとしてのこだわりが合致を果たし、心地良い雰囲気を作り出している。これが稀にソングライターとしての威風堂々たる存在感を持つ曲に昇華される瞬間がある。そのことは、「I Can't Find You」を聞くと瞭然ではないか。それが聞き手の内なる感覚に共鳴すると、淡い抒情性や哀愁を呼び覚ますこともある。それはまたフォーク、カントリーによるブルースの精髄とも言えるのだろう。


フォーク/カントリーとロックの融合という彼の新しい主題は、「It's True」において魅力的な形を取って表れる。アコースティックギターの変則的なリズムとドラムのダイナミクスを活かしながら、これまでになかったスタイルを探求している。そこに、縒れたようなJ マシスの力の抜けたボーカルが加わると、新鮮なカントリーソングの感覚に満ちてくる。この曲を聴くと、ロック性ばかりが取りざたされてきたギタリストであるものの、ソロアルバムの旧作と同じく、カントリーミュージックがマシスにとって、いかほど大きな存在であるのかわかる。ギターソロに関しても、曲に満ちるブルースの雰囲気をエレクトリックギターによって巧みに増幅させようとしている。

 

ダイナソーJr.での音楽的な経験は「Set Me Down」に色濃く反映されている。この曲では、『Green Mind』の時代の作風に加え、ブルーグラスの古典的な音楽性を呼び起こそうと試みる。もちろん、その中に、ロックとしての変拍子を加え、ひねりを生み出している。続く「Hanging Out」では、ロック・ギタリストとして、教則本以上の模範的なソロプレイを示す。特に、シンガーソングライターとしての未知の領域は、本作の最後に示唆されている。「End Is Getting Shaky」では、経験豊富なシンガーソングライターとしての精髄を見せる。

 

『What Do We Do Now』は、カントリー/ブルーグラスの影響が押し出され、J マシスが旧来になく古典的なアプローチを図った作品となっている。表向きにはスタンダードなUSロックに聞こえるが、Guided By Voices、Silver Jewsとの共通点も見出せる。そう、やはりどこまでもオルタナティヴなアルバムだ。無論、今作の最後がギターソロとボーカルで終わることからもわかる通り、不世出のロックギタリストとしての矜持が込められていることは言うまでもない。




76/100



「Set Me Down」




Torres 『What An Enormous Room』


 

Label: Merge

Release: 2024/1/26

 

 

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Review

 

ポピュラー音楽の最良の選択


 マッケンジー・スコットによるソロ・プロジェクト、TORRESは近年、盛り上がりをみせつつあるシンセ・ポップをソロシンガーとして探求している。

 

 しかし、月並みにシンセ・ポップと言っても色々なスタイルがあって、ニューヨークのマーガレット・ソーンのような実験的なエクスペリメンタルポップや、ロンドンのmuizyuのような摩訶不思議な世界観を織り交ぜたゲームサウンドの延長線上にあるエレクトロ・ポップ、Fenne Lilyのようなフォークを基調とする柔らかい甘口のインディーポップ、そしてメタルやノイズ、はては、ベッドルームポップまでを網羅するYeuleなど、アウトプットされるスタイルは年々、細分化しつつある。ダンスミュージックを実験的なサウンドて包み込むキャロライン・ポラチェック、DJセットの延長線上にあるエクスペリメンタルポップアーティスト、アヴァロン・エマーソンというように、枚挙に暇がない。よりノイジーなハイパーポップになれば、FKA Twigs、リナ・サワヤマやChali XCXとなるわけで、その細分化を追うことはほぼ不可能である。

 

 トーレスに関しては、やはりニューヨークのシンセポップのウェイブに位置づけられる音楽の体現者/継承者であり、それらのメインストリームとアンダーグランドの中間層にあるバランスの取れたシンセポップをこのアルバムで展開している。 序盤におけるこれらのバランスの取れたスタイルには、過剰なダイナミックス性やカリスマ性、そして圧倒的な歌唱力は期待するべくもないが、軽く聞けると同時に、聴き応えもあるという相乗効果を発揮している。シリアスになりすぎないポップス、感情を左右しないフラットなシンセ・ポップをお好みの方にとって『What An Enormous Room』は最良の選択となるかもしれない。

 

 トーレスは、エヴァロン・エマーソンのようなバリバリのフロアで鳴らしたDJではないのだが、他方、80年代の懐古的なブラックミュージックをポピュラーサウンドに上手い具合に織り込んでいる。まさしく「Happy Man’s Shoes」は、ファンクの影響を内包させた軽快なダンス・チューンを下地にし、このシンガーの特徴であるクールな感じのボーカルが搭載される。フィルターを薄くかけたボーカルに関しては、歌手としての主体性にそれほど重きをおかず、ダンス・チューンの雰囲気や曲の空気感を尊重しようという控えめなスタイルである。

 

 一見すると、きらびやかな印象ばかりが表向きにフィーチャーされる現代的なポピュラーシーンにあり、トーレスの曲そのものはいくらか地味というか、少し華やかさに欠けるような印象を覚えるかもしれない。しかし、音楽フリークとしての隠れたシンガーの特徴は続く「Life As We Don't Know It」に出現し、忘れかけられた1970年代のニューウェイブの音楽性を、みずからのポケットにこっそり忍ばせて、それをやはり軽快なシンセポップという形で展開させる。そして、それらのグルーブ感をグイグイ押し上げるかのようにダンスビートを覿面に反映させたトラックに、ポスト・パンク的なボーカルのフレーズをこっそり織り交ぜるのである。このボーカリストとしてのしたたかな表現性になんらかの魅力を感じても、それは多分思い違いではない。

 

 「I Got Fear」はハイパーポップに象徴されるノイズの影響を込めたダンサンブルなシンセポップで、現代的なポピュラー音楽を好むリスナーにとっては共感をもたらすかもしれない。コラージュ的な再構成によるアコースティックギターの録音に、トーレスは内面の感覚を織り交ぜようとするが、それは驚くほどシンプルであり、無駄なものが削ぎ落とされているため、スタイリッシュな印象を覚える。そしてバンガーのような展開を無理に作ろうとしないこと、これが曲そのもののスムーズな進行を妨げず、驚くほど耳にメロディーが馴染むというわけなのである。つまり、シンガーソングライターとしての自然体な表現がシンプルな質感を伴い、親しみやすい感覚を生み出す。

 

 その後も、耳障りの良いポピュラー・ソングが続く。「WAKE TO FLOWERS」については、現代のニューヨークのモダンポップスの範疇にあるアプローチと言える。知ったかぶりで語るのは申し訳ないと思うが、 この曲では近年のポップスの複雑化とは対極に位置する簡素化に焦点が絞られ、無駄な脚色が徹底して削ぎ落とされている。ベースとドラム、トーレスのボーカルという現代的な音楽として考えると、少し寂しさすら覚えるような音楽であるのに、驚くほど軽妙な質感を持って聴覚を捉える。そして、トーレスのボーカルに関しても、マーガレット・ソーンのように爽やかさがある。さらに、曲の終盤では、ノイジーなギターが入るが、それは決して曲の雰囲気を壊すこともなければ、マッケンジーのボーカルの清涼感を壊すこともない。

 

 上記のシンプルさに徹そうというアプローチは、IDM寄りの電子音楽と結びつけられる場合もある。「UGLY MYSTERY」では、レトロなシンセと混ざり合い、トーレスの優しげなボーカルの質感と合致するとき、内に秘められた密かなドラマティック性を呼び起こす瞬間がある。また、それほど即効性のあるポピュラー音楽のアプローチを選んでいないにもかかわらず、じんわりと胸に響くエモーションが込められている。それはR&Bのようなマディーな渋みとまではいかないが、マッケンジーのスモーキーで深みのあるボーカルによってもたらされる。


そして、フレーズを歌い飛ばすのではなく、しっかりと歌いこんでいるという録音の印象が、聞き手の興味を惹き付ける。これらの印象は、表面的な派手さとは別の「深み」という音楽の持つ魅力的な側面を生み出すことがある。そして、マッケンジーは、それまでエネルギーを溜め込んでいたかのように、続く「COLLECT」で一挙にその秘めたエネルギーを爆発させ、アンセミックなポピュラー・ソング、つまり、フローレンス・ウェルチに比する迫力を持つ大掛かりなポップ・バンガーに鋭く変貌させる。この変わり身の早さともいうべきか、一挙に音楽の印象が激変する瞬間に、このアルバムの最大の醍醐味が求められる。それまで長いあいだ、歌手としての才覚の牙を研ぎつつ、表舞台にでていく日を待ち望んでいたかのようでもあるのだ。

 

 驚くべき変身振りをみせたシンガーは、その流れに逆らわず、スムーズに波に乗っていく。「Artifical Limits」では、それをさらにエクスペリメンタルポップに傾倒した現代的なプロダクションに変化させ、 ヴィンセントの時代のシンセ・ポップの熱狂性を呼び覚まそうとしている。この曲もまたハイパーポップ/エクスペリメンタルポップの属するノイジーさはあるが、シンプルな構成を重視することにより、聞きやすく掴みやすい音楽を生み出している。しかし、それらの王道の音楽性と気鋭の歌手としての微妙な立ち位置やポジションが個性的な雰囲気を持つのもまた事実である。

 

 アルバムの終盤でも一連の流れや勢いは衰えることなく、スムーズにクライマックスへと繋がっていく。「Jerk Into Joy」、「Forever Home」では同じように、ニューヨークのモダンな最前線のポップスを継承し、「Songbird Forever」においても、歌手としての才気煥発さは鳴りを潜めることはない。


他ジャンルとの融合という近年のポップスの主要なテーマを踏まえて、ピアノの現代音楽的なプロダクション、鳥の声のサンプリングというフィールドレコーディングの手法を活かしながら、ボーカルの清々しい空気感は、アルバムのクライマックスで遂に最高潮に達する。それらは最終的に、クリアな感覚を生み出し、トーレスが、同地のマギー・ロジャースに比肩する2020年代を象徴付けるシンガーソングライターになるのではないか、という期待感を抱かせる。

 


86/100


 

Featured Track-「Jerk Into Joy」




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Katy Kirby  『Blue Raspberry』




Label: Anti-

Release:2024/01/26

 

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Review

 

 ニューアルバム『Blue Raspberry』でニューヨークのシンガーソングライター、ケイティ・ カービーが描こうとした経験、あるいはその他人との共有とはいかなるものだったのだろう。すべてを明言することはできないが、少なくとも、それは、アルバムの収録曲のいくつかに明確に反映されていることが分かる。


 「Redemption Arc」は、バラードソングのタイプのインタリュードで、アンティークなピアノの演奏をもとにし弾き語りというスタイルで始まる。ペダルの音のアンビエンスを活かしながら、シンプルな歌声と和音の同調のメジャーからマイナーへの進行により、このバラードにホロリとさせる瞬間をもたらしている。


 しかし大げさな表現とはならず、シンプルな歌声やピアノの演奏がオープナーで繰り広げられる。それはアルバムの全般的な印象、つまりこの後、音楽がどうなっていくのかという期待感をもたせる。そしてその音楽には、どうやらこのSSWの主要な特徴であるカントリー音楽の雰囲気が感じられる。

 

 オープニングで示されたカントリー音楽の影響は続くシークエンス「Fences」でより明らかになる。イントロのアンティークなピアノから、ペダルスティールのまったりとした響きを元にして、近年のビックシーフやそのフォロワー、あるいはワクサハッチーやジェス・ウィリアムソンの書くようなモダンなポピュラーカントリーの妙味が味わえる。これらの現代性を強化しているのがトラックに薄く重ねられるシンセ、ギター、フレーズの合間に導入されるピアノである。カービーはムードたっぷりに歌うが、それはプレスリリースで示された通り、「ゴージャスなものを作りたいという衝動を押さえつけない」というコンセプト通りのものが反映されているとも言える。しかし、カービーの意図するゴージャスさとは、単なる華美さではない、その中にブルースのような哀愁がある。それはこの曲の強度、そして聴き応えをもたらしている。

 

 続く、2曲は昨年、ベッカ・マンカリやマデライン・ケニーといった若手シンガーが示した実験的なポップスの範疇に属する。歌やソングライティングの一連の表現の中に、実際的なクイアネスの表現性が留められているのか、そこまでは分からないが、「Cubic Zirconia」ではインディーポップとモダン・カントリーを組み合わせたアプローチの中に、そして続く「Hand To Hnad」では叙情的なポップネスの中に、このシンガー、ひいてはアルバムの持つ最大の魅力が込められている。


 それは派手な演出とは対極にある素朴さという形で繰り広げられ、スケールの進行の妙味やシンガーの微細なボーカルのニュアンスの変化の中に、このミュージシャン特有の表現性を見出すことが出来る。 そしてここには、プレスリリースにかかれている通り、新しい愛の至福の部分が表現されていると言える。それはなんら関係のない人物が歌うものであるはずなのに、同じような感覚、内面が喜びで満たされているという感覚をもたらす。


 アルバムの中盤では、穏やかな曲が続く。急激な展開を避け、「Wait Listen」ではピアノとギターを組み合わせたバラードソング、そして続く「Drop Dead」ではギルバート・オサリバンのような親しみやすいバロックポップの形を取り、展開される。これらの2曲は前者の場合はフォークの安らぎ、後者の場合は、ポップスそのものの親しみやすさという形で表れる。そして何より、ケイティ・カービーの経験からもたらされるロマンティックな気分が反映されている。

 

 「Party Of The Century」では、Sufjan Stevensの温和なインディーフォークにゴージャスな雰囲気を加えている。これらの明るさのあるアコースティックのギターラインに加えてカービーのコーラスが加勢することで、曲のクライマックスでは至福感のある感情性を生み出している。曲の終盤に導入されるフィドルのような響きを持つストリングスは清々しい感覚をもたらす。


 「Alexandra」は、ベースラインの古典的なR&Bのようなブレイクを挟んだ、面白いタイプの楽曲である。象の歩行のようにゆったりしたテンポにもかかわらず、ほとんどメロディーや構成の持つ基本的な形が崩れないというのは凄さを感じる。そして曲の終盤では、このゆったりとした展開から跳ね上がるような感じで、熱狂的なギターがテンションの上昇を形作る。シュールさとユニークさをあわせ持つこの曲は、本作の中でも異彩を放っている。

 

 続く「Salt Chrystal」ではオープニングのバロック・ポップを基調とするバラードに戻る。ジョンレノンのイマジンやビートルズのデモソングのような少しローファイな音響性をイントロに配して、それらの古典的なポップスの形式にいかにモダンな感覚を及ぼすのかに気が配られている。ムードたっぷりの曲で、最後はそれらの空気感が最高潮に達する。曲の最後のボーカルのメロディーの進行には、ケイティ・カービーのオアシスに対するさりげない愛が示されている。そして、ストリングスアレンジにより、製作者の思惑通り、ゴージャスな瞬間を迎える。


 制作の一番最初に書かれたというタイトル曲は、美麗なコーラスを通じてシンガーの内的な至福感が明確に立ち表れる。やはりそれは冒頭と同じようにスロウテンポのバロックポップという形で昇華される。クローズ曲は、オープニングのしっとりとしたアプローチとコントラストを描き、パンチの効いたロック調のシンセポップソングで、アルバムの最後に花を添えている。

 

 

 

75/100



「Cubic Zirconia」

New Dad  『Madra』

 

Label: A Fair Youth

Release: 2024/01/26

 

 

Review 

 

 New Dadはアイルランドのゴールウェイ出身のバンド。ドリーム・ポップとシューゲイズの中間にある音楽性が特徴である。当初はトリオ編成であったというが、ボーカリストのフリー・ドーソンがひとりで演奏するのが嫌という理由でベーシストのショーン・オダウトが加入した。

 

 2022年のEP『Banshee』は、ロックダウンに直面した際の不安や気分の落ち着かなさをテーマに縁取っていた。続く、フルアルバム『Madra』は、ボーカリストの人間関係、あるいは暗鬱的な感情、それにまつわる治癒がフィーチャーされ、内面の表出ともいうべきテーマが暗示されている。 アイルランドのクリエイター、ジョシュア・ゴードンが手掛けたアルバムのアートワークは脆さや、傷つきやすさのメタファーとして機能する。


 Madraは、ニューダッドが、彼らの音楽的ルーツと再びつながり、彼らの形成期を支えたシューゲイザー・サウンド(バンドは、ピクシーズ、ザ・キュアー、スローダイヴを初期に最も影響を受けたバンドとして挙げている)を深く掘り下げている。初期の作品である「Waves EP」(2021年)と「Banshee」(2022年)を彷彿とさせるインディー/ポップのきらめきも加えている。


 今年、バンドがロンドンに移る前に、彼らの故郷であるアイルランドのゴールウェイで書かれた。伝説的なロックフィールド・スタジオ(ブラック・サバス、クイーン)でレコーディングされたこのアルバムは、ニューダッドの長年のコラボレーターであるクリス・W・ライアン(ジャスト・マスタード)がプロデュースし、アラン・モルダー(スマッシング・パンプキンズ、ナイン・インチ・ネイルズ、ウェット・レッグ)がミキシングを行った。

 

 アルバムはJust Masterdにも近い印象のあるアンニュイなギターロックが中心となっているように思われる。しかし、「Banshee」の頃に見いだせた温かな感じが消え、ひんやりとしたドリーム・ポップやシューゲイズサウンドが展開される。バンドはよりバンガー的なフレーズを意識しつつ、従来のサウンドをどのように敷衍させるのか試みているという印象である。それは、3曲目の「Where I Go」に現れ、ディストーションの拡張、ギターサウンドが生み出すアンビエント的な音響の中で、ボーカルのアンニュイさをどう活かすのかに重点が置かれているように思える。確かにポストシューゲイズに位置づけられるように、ほどよい心地よさもある。そして、ノイジーな側面ばかりで押し通すのではなく、その中にあるサイレンスを大切にしているように思える。これがシューゲイズの感覚的なうねりを生み出し、ニューダッドのサウンドの長所となっている。まるで港のさざなみを静かに見つめるような叙情性がギターロックと重なり合う。

 

 そして以前よりもダークなサウンドが色濃くなった印象である。それはアルバムのテーマであり、またアートワークにも象徴される内面の脆さを暗示している。オープニング「Angel」では、内面の苦悩がドーソンのボーカルに乗り移り、それはかつてのサバスのような印象のあるゴシック的な雰囲気を生み出すこともある。しかし、ゴシック・メタルのようになることはなく、すぐさま甘美的なメロディーを持つ展開へと立ち戻り、それはゴシック的なドリーム・ポップともいうべき世界観を作り出す。しかし、そのサウンドの中にはどこまでも悲しみが漂う。

 

 しかし、このアルバムがどこまでも暗鬱で悲観的なのかと言えば、そうではないと思う。例えば、中盤に収録されている「In My Head」はいわゆる暗鬱な状況から低空飛行でありながらも、その感情の中間域にあるフラットな状態に近づくことがあり、それはわずかにバンドアンサンブル全体として、「Banshee」の「Ladybird」に比する温かい感情性を帯びることがある。そして、それはドラムとツインギター、ベースの心強さのあるエネルギーによって押し上げられていく。


 2分17分のツインギターの織りなす絶妙な叙情性についてはアイルランドのバンドの伝統であり、とても素晴らしい。その後にノイジーで迫力のあるサウンドが展開される瞬間、得がたいカタルシスが生み出される。「Nosebleed」では、コクトー・ツインズのようなゴシック的な色合いを受けついだドリーム・ポップの核心を突く。そして、アルバムの表面的な印象とは正反対に、聞き手に癒やしや安心感を与える。ここに、90年代のシューゲイズの前身であるニューロマンティックやスコットランドのギターロックとの共通性を見出すこともさほど難しくはない。実際的には、このジャンルの主要な特徴である甘美的なサウンドが生み出され、そのエモーションが内省的なポップスのアプローチにより強化される。



 

  『Madra』の音楽的なアプローチは、一貫して内省的なギターロックサウンドという形で昇華され、「Let Go」では、前進しきれないことに対するもどかしさのような思いも捉えられる。それは内省的な停滞感が表され、アストラルに属する感覚がどこまでも続いているかのような気分を起こさせる。しかし、その感覚を進んでいくと、暗い感覚を宿したままディストーションギターにより激しいスパークを発生させる。これらの暗澹とした感覚を鋭いサウンドとして発散させ、それらがそのまま癒やしに変化することをニューダッドは示そうとしている。

 

 そしてギターサウンドの上に不安感や恐怖感といったエモーションが夢遊の雰囲気を携えて流れていく。ピクシーズのような鋭利なオルタナティヴサウンドの影響も見えるが、正直、かのバンドのように開けた感覚はなく、どこまでも閉塞感に満ちている。このサウンドをどのように捉えるのかは、リスナー次第といえるかもしれない。

 

 しかし、それらの全般的な暗鬱なサウンドの印象は、本作の終盤で一瞬だけ覆される。「Dream Of Me」では、「Banshee」の頃の温和で心地よいオルトロックが帰ってきたような印象がある。

 

 フルアルバムとして聞くと、この曲を1つの支点として、ダウナーな領域を彷徨う感情の出口が示されているといえる。いわば、それ以前の曲では、暗澹たるもんどり打つ感覚、それ以後は、そこから抜け出す過程が示されている。これが「In My Head」と同じく、何か報われない思いを抱くリスナーに共感をもたらすかもしれない。


 「Nightmare」では、タイトルの印象とは裏腹に、暗い感覚から生み出される仄かな明るさが示され、Girl Rayのようなディスコ・リバイバルのようにファニーな感覚が表れる。アルバムの終盤では、「White Rabbits」において、オルト・フォークとギターポップの中間にある音楽性を示す。


 最後のタイトル曲は、Just Masterdの音楽性を彷彿とさせるポストパンク的なアプローチを見せる。アートワークは、ホラーな感じなので、ちょっとビックリするかもしれない。でも、実はこれこそ以前からのニューダッドの特性でもある。それは人生の甘さに添えるスパイスのようなものなのだ。


 

76/100 

 

 

「In My Head」

 Future Islands    『People Who Aren't There Anymore』

 


 

Label: 4AD

Release: 2024/1/26

 

Listen/Stream

 

 

Review 

 



 ボルチモアのフューチャー、アイランズは、2008年のデビュー当時は、実験的なシンセポップ・サウンドが持ち味だった。

 

 以後、フューチャー・アイランズは、2015年の一年間に1000回に及ぶ過酷なツアーをこなし、弛まぬ成長を続けてきた。2011年頃から、バンドはポピュラー性を前面に出すようになり、ソングライティングのメロディーを洗練させ、アンサンブルに磨きをかけてきた。グラミー賞プロデューサー、ジョン・コングルトンとLAで録音された『People Who Aren't There Anymore』は、サミュエル・T・ヘリングの年を重ねたがゆえのボーカルの円熟味、ウィリアム・カシオンの骨太なベース、そして全体に華やかさをもたらすゲリット・ウェルマーズのシンセサイザー、ソングライティングに携わった三者三様の個性が良質な科学反応を起こしている。

 

 近年、ラフ・トレードが年間ベストに選出したNation Of Language(ネイション・オブ・ランゲージ)を筆頭に、ヒューマン・リーグやジャパンといったニューロマンティックやニューウェイブに属するバンドが、ニューヨークを中心に盛り上がっている。この動向はロンドンを中心に隆盛を極めるポストパンクとは別のウェイブを巻き起こしそうな予感もある。


 70年代のニューウェイブに対するノーウェイブの復刻とまではいかないが、ポストパンクバンドが飽和状態にあるシーンを鑑みると、シンセ・ポップはポスト・パンクに対する一石を投じる存在で、穏当に言えば、新鮮な気風をもたらす意味があるのではないだろうか。少なくとも、ニューロマンティック/ソフト・ロックに属するバンドの楽曲は、世の中に無数に氾濫する情報過多の音楽の中にあり、清涼味をもたらす。ノイジーな音楽に食傷気味のリスナーにとって地上の楽園ともなりえる。

 

 アルバムのタイトルに関しては、アガサ・クリスティーの推理小説の題名のようであり、実際、様々な推理や憶測を交えることができる。


 すでに自分の元を去っていった人々への惜別か、それとも、会うことが叶わぬ人々に対する哀愁の思いか、定かではないが、生きていれば、人間関係は驚くほど早く移り変わり、いつも当たり前と思っていることは全く当たり前ではなく、いつも普通に接している人々は、もしかすると、その後、普通に会えなくなることもある。そんなことをやんわりと教え愉してくれる。


 タイトルにこめられた「最早そこにいなくなった人々」という伏線的なテーマは、「King Of Sweden」におけるベースとシンセを中心とするアプローチに乗り移り、サミュエル・ヘリングの渋いボーカルが加わり、フューチャー・アイランズの代名詞となる緻密なサウンドにより構築されていく。デペッシュ・モードに比するロック的な響きも求められなくもないが、ボーカルの合間に導入される癖になるレトロなシンセが、曲の持つエネルギーを増幅させる。これらの見事なアンサンブルに関して、なんの注文をつけることができよう。明らかに三分半頃からのヘリングのボーカルには、ロックに引けを取らないエナジーを感じ取ることができる。2010年頃に飽和したかに思えたシンセ・ポップが今も健在であることを、彼は身をもって示している。

 

 もうひとつのハイライトは「The Tower」に訪れる。内省的なシンセのフレーズを遠心力として、ヘリングの円熟味を感じさせるボーカルが同じように和らいだ感覚をもたらす。バンドは以前よりもアンセミックで親しみやすいサウンドを追求しているが、「High」というフレーズの繰り返しのところで、この曲は最高の瞬間を迎える。ヘリングはオープナーと同様、ロック的なエナジーをもたらそうとしているが、反面、対旋律的な動きを重視したベースライン、ムーグシンセのような音色を駆使することもあるシンセラインは驚くほど落ち着いている。これがサウンドの絶妙な均衡を保ち、静謐さと激しさを兼ね備えた音楽を生み出す要因になっている。

 

 

 アルバムの中盤では、ライブサウンドを意識した楽曲が収録され、オーディエンスをどのように熱狂の中に取り込むかという狙いも読み解くことができる。「Say Goodbye」、「Give Me The Ghost Back」はフューチャー・アイランズのアグレッシヴな側面が立ち現れ、前者はソフト・ロックを基調としたベースラインの力強さに、そして後者は、ニューロマンティックの懐古的なボーカル/シンセの中に宿る。これらのサウンドは、アルバムの冒頭の収録曲と同じように、2つの側面ーーサイレンスとラウドーーという対極にあるはずの音楽が合致することで生み出される。


 その後、微細な感情の揺れ動きを巧みに表現するかのように、2つの対比的なトラックが続く。「Corner Of My Eye」は暗喩的に含まれる悲哀をどのようにダイナミックな音楽表現として昇華するのかという思いが読み取れる。昨年のGolden Dregsほど明確なアプローチではないものの、人生の中における目の端の涙を拭うかのように、その後の希望に向けて歩き出す過程を親しみやすいシンセ・ポップとして刻印している。実際、サビの部分では、彼らのレコーディングの経験の側面が立ち現れる瞬間があり、ロサンゼルスの海岸のようなロマンティックで開けた雰囲気、あるいはそのイメージが脳裏に呼び覚まされる。背後に過ぎ去った悲しみに別離を告げ、未知の新しい人生に向かい、少しずつ歩み出すかのような清々しさを味わえる。続く「The Thief」は対象的に、YMOのようなサウンドを基調とするスタイリッシュでレトロなポップスが展開される。シンセのフレーズにアジア音楽のスケールが取り入れられることもあり、ボーカルのヘリングの声には、ちょっとユニークでおどけたような感覚がうっすら滲み出ている。


 

 アルバムの終盤には、「Iris」を筆頭にし、80年代のドン・ヘンリーやフィル・コリンズの系譜にあるノスタルジア満載のサウンドが繰り広げられる。ただフューチャー・アイランズのアプローチは、コリンズのようにR&Bの影響はなく、純粋なソフト・ロックをダンサンブルに解釈していて、なかにはニューウェイブに近い音楽性も含まれている。「Peach」に関してはスティングが志向したような清涼感のある80年代のポピュラー音楽に対する親和性も感じられる。

 

 後半では、コンポジションに大掛かりな仕掛けが施され、ライブを意識した大きなスケールを持つ曲が収録されていることに注目したい。


 特に「The Sickness」に関しては、ライブの終盤のセットリストに組まれてもおかしくない曲で、聴き逃す事はできない。ドラマティックな感覚をバンドサウンドとしてどのように呼び覚ますのかに焦点が絞られる。実際、ここには完璧な形でこそないにせよ、エモーショナルという側面で、フューチャー・アイランズの真骨頂が垣間見える。トロピカルなイメージを持つシンセ、対旋律的なベース、渋いボーカルが化学反応のスパークを起こす時、彼らの従来とは異なる魅力が現れ、一大スペクトルを作り上げる。そこには、かすかでおぼろげでありながら、バンドの最も理想とするサウンド、グループの青写真が断片的に示唆されていると言えるだろう。

 

 

 

82/100 

 


「The Tower」

 

 The Smile  『Wall Of Eyes』

 


 

Label: XL Recordings

Release: 2024/01/26



Review 


終わりなきスマイルの音楽の旅


パンデミックのロックダウンの時期に結成されたトム・ヨーク、ジョニー・グリーンウッド、トム・スキナーによるThe Smileは、デビュー作『A Light For Attracting Attenstion』で多くのメディアから称賛を得た。

 

レディオヘッドの主要な二人のメンバーに加え、サンズ・オブ・ケメットのメンバーとして、ジャズドラムのテクニックを研鑽してきたスキナーは、バンドに新鮮な気風をもたらした。1stアルバムでは、現在のイギリスのロックシーンで隆盛をきわめるポストパンク・サウンドを基調とし、トム・ヨークの『OK Computer』や『Kid A』の時期から受け継がれる蠱惑的なソングライティングや特異なスケールが重要なポイントを形成していた。いわば、レディオヘッドとしては、限界に達しつつあったアンサンブルとしての熱狂を呼び戻そうというのが最初のアルバムの狙いでもあった。

 

続くセカンド・アルバムは、表向きには、1stアルバムの延長線上にあるサウンドである。しかし、さらにダイナミックなロックを追い求めようとしている。オックスフォードとアビーロード・スタジオで録音がなされ、ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラをレコーディングに招聘した。


オーケストラの参加の影響は、ビートルズの「I Am The Walrus」に代表されるフィル・スペクターによるバロックポップの前衛性、ラナ・デル・レイが最新アルバム『Did You Know〜?』で示した映画音楽とポップネスのドラマティックな融合、そして、変拍子を多用したスキナーのジャズドラム、ヨークが持つ特異なソングライティング、グリーンウッドの繊細さとダイナミックス性を併せ持つギターの化学反応という、3つの点に集約されている。全8曲というきわめてコンパクトな構成ではありながら、多角的な視点から彼らの理想とするロックサウンドが追求されていることが分かる。

 

このアルバムを解題する上で、XL Recordingsのレーベルの沿革というのが影響を及ぼしていることは付記しておくべきだろう。このレーベルはレディオヘッドの最盛期を支えたことはファンであればご存知のことかもしれない。しかし、当初は、ロンドンの”Ninja Tune”のように、ダンス・ミュージックを主体とするレーベルとして発足し、90年代頃からロック・ミュージックも手掛けるようになった経緯がある。

 

最近、Burialの7インチのリリースを予定しているが、当初はダンスミュージックのコアなリリースを専門とするレーベルだった。そのことが何らかの影響を及ぼしたのか、『Wall Of Eyes』は、全体的にダブの編集プロダクションが敷かれている。リー・スクラッチ・ペリーのようなサイケデリックなダブなのか、リントン・クウェシ・ジョンソンのような英国の古典的なダブの影響なのか、それとも、傍流的なクラウト・ロックのCANや、ホルガー・シューカイの影響があるのかまでは明言出来ない。


しかし、アルバムのレコーディングの編集には、ダブのリバーブとディレイの超強力なエフェクトが施されている。実際、それは、トム・ヨークの複雑なボーカル・ループという形で複数の収録曲や、シンガーのソングライティングの重要なポイントを形成し、サイケデリックな雰囲気を生み出す。


タイトル曲では、ダブやトリップ・ホップのアンニュイな雰囲気を受け継いで、アコースティックギターの裏拍を強調したワールド・ミュージックの影響を交え、ザ・スマイルの新しいサウンドを提示している。移調を織り交ぜながらスケールの基音を絶えず入れ替え、お馴染みのヨークの亡霊的な雰囲気を持つボーカルが空間を抽象的に揺れ動く。これは、アコースティックギターとオーケストラのティンパニーの響きを意識したドラムの組わせによる、「オックスフォード・サウンド」とも称すべき未知のワールドミュージックと言えそうだ。

 

それはまた、トム・ヨークの繊細な感覚の揺れ動きを的確に表しており、不安な領域にあるかと思えば、その次には安らいだ領域を彷徨う。これらの色彩的なスケールの進行に気品とダイナミックスを添えているのが、ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラによるゴージャスなストリングスだ。そのなかにダブステップの影響を織り交ぜ、「面妖」とも称すべき空気感を作り出している。アウトロには、Battlesの前身であるピッツバーグのポスト・ロックバンド、Don Caballeroの「The Peter Chris Jazz」のアナログ・ディレイを配した前衛的なサウンドプロダクションの影響が伺えるが、このタイトル曲では、比較的マイルドな音楽的な手法が選ばれている。無明の意識の大海の上を揺らめき、あてどなく漂流していくかのような神秘的なオープニングだ。

 

 

『KID A』で、レディオヘッドはおろか、彼らの無数のファンの時計の針は止まったままであったように思える。しかし、ヨークはおそらく、「Teleharmonic」を通じて「Idioteque」の時代で止まっていたエレクトロニックとロックの融合というモチーフを次の時代に進めることを決断したのだろう。


この曲を発表したことにより、以前の時代の作品の評価が相対的に下がる可能性もある。しかし、過去を脱却し、未来の音楽へと、彼らは歩みを進めようとしている。このことは再三再四言っているが、長い時を経て同じようなことをしたとしても、それはまったく同じ内容にはなりえない。そのことを理解した上で、James Blakeの初期から現在に掛けてのネオソウルやエレクトロニック、Burialのグライム、ダブステップの変則的なリズムやビートの影響、ワールド・ミュージックの個性的なパーカッションの要素を取り入れ、静かであるが、聴き応えのある楽曲を提供している。一度聴いただけではその内奥を捉えることが叶わない、無限の螺旋階段を最下部にむかって歩いていくかのような一曲。その先に何があるのか、それは誰にもわからない。


『Wall Of Eyes』は、ポストロックの影響が他の音楽の要素とせめぎ合うようにして混在している。3曲目「Read The Room」のイントロでは、グリーンウッドのギターが個性的な印象を擁する。

 

バロック音楽とエジプト音楽のスケールを組みわせ、Blonde Redheadの「Misery Is A Butterfly」の時期の作風を思わせる古典音楽とロックの融合に挑む。しかし、最初のモチーフに続いて、「OK Computer」の収録曲に象徴される内省的なサウンドが続くと、その印象がガラリと変化する。スキナーの卓越したドラムプレイが曲の中盤にスリリングな影響を及ぼす。そして終盤でも、ポスト・ロックに対するオマージュが示される。Slintの「Spiderland」に見受けられる荒削りな音作りが、移調を散りばめた進行と合致し、魅力的な展開を作り上げている。


それに加えて、再度、ドン・キャバレロやバトルズのミニマリズムを基調としたマス・ロックが目眩く様に展開される。これらの音楽は、同じ場所をぐるぐる回っているようなシュールな錯覚を覚えさせる。それと同様に、ポスト・ロック/マス・ロックの影響を交えた曲が後に続き、「Under Our Pillows」でも、ブロンド・レッドヘッドの「Futurism vs. Passeism Pt.2」に見受けられるように、バロック音楽のスケールをペンタトニックに織り交ぜようとしている。

 

上記の2曲はロックバンドとしての音楽的な蓄積が現れたと言えるが、少し模倣的であると共に凝りすぎているという難点があるかもしれない。もう少しだけ明快でシンプルなサウンド、ライブセッションの楽しみを追求しても面白かったのではないだろうか。

 

ただ、「Friend Of A Friend」に関しては、ポップ/ロックの歴史的な名曲であり、ザ・スマイルの代名詞的なトラックとなる可能性が高い。トム・クルーズ主演の映画「Mission Impossible」のテーマ曲と同様に、5/8(3/8 + 2/8)という複合的なリズムを主体とし、The Driftersの「Stand By Me」を思わせる、リラックスした感じのウッドベース風のベースラインが曲のモチーフとなっている。

 

5/8のイントロダクションの4拍目からボーカルがスムーズに入り、その後、楽節の繰り返しの繋ぎ目とサビの前で、ワルツのような三拍子が二回続き、これがサビの導入部のような役割を果たす。そして、6/8(3/8+3/8)というリズムで構成されるサビの終わりの部分でも、リズムにおいて仕掛けが凝らされ、最初のイントロに、なぜ3拍の休符が設けられていたのか、その理由が明らかとなる。

 

その中で、さまざまな表現方法が織り交ぜられている。旧来のレディオヘッド時代から引き継がれるトム・ヨークの本心をぼかしたような詩の面白さ、ボーカルの微細なニュアンスの変容がディレイやダビングと結びつき、また、スポークンワードのサンプリングとの掛け合い、オーケストラの演奏をフィーチャーしたフィル・スペクター風のチェンバーポップが結び付けられ、最終的には、ビートルズの「I Am The Walrus」の影響下にある、蠱惑的なロックサウンドが組み上げられていく。分けても、終盤に収録されている「Bending Hectic」と同様に、ロンドンコンテンポラリーオーケストラの演奏の素晴らしさが際立っている。アウトロでは、トム・ヨーク流のシュールな歌詞がストリングスの和音のカデンツァに溶け込んでいくかのようである。

 

 

「Friend Of A Friend」 

 

 

「I Quit」でも、「Kid A」のIDMとロックの融合に焦点が絞られているらしく、二曲目のダンスミュージックと前曲のリズム的な面白さをかけあわせている。本作の中では最もインスト曲の性質が強く、主要なミニマル・ミュージックの要素は、デビュー作の内省的なサウンド、ストリングスの美麗さと合わさり、ダイナミックな変遷を辿る。表向きにはオーケストラの印象が際立つが、グリーンウッドのギターサウンドの革新性が、実は重要なポイント。従来から実験的なサウンドを追求してきたジョニー・グリーンウッドの真骨頂となるプロダクションである。そして、控えめなインスト寄りの音楽性が、本作のもう一つのハイライトの伏線となっている。

 

「Bending Hectic」は、モントリオール・ジャズ・フェスティバルで最初に演奏された曲で、アルバムのハイライトである。英国のメディア、NMEの言葉を借りるなら、「ロックの進化が示された」といえる。

 

それと同時にロックミュージックのセンセーショナルな一側面を示している。繊細なアルペジオを基調としたポスト・ロックの静謐なサウンドが続き、その後、「Friend Of A Firend」と同じようにスペクターが得意としていたストリングスのトーンの変容を織り交ぜた前衛的なサウンドへと変遷を辿る。曲の終盤では、70年代のジミ・ヘンドリックスのハードロックサウンドに立ち返り、ヨークの狂気すれすれのボーカルのループ・エフェクトを通じて、ダイナミックなクライマックスを迎える。しかし、曲の最後がトニカ(終止形)で終了していないことからも分かる通り、アルバムには、クラシック音楽のコーダのような役割を持つトラックが追加収録されている。

 

1stアルバム『A Light For Attraction』で示唆されたヨークの新しい形のバラード「You Know Me?」は、ジェイムス・ブレイクの楽曲のようにセンシティヴだ。飛行機を乗るのはもちろん、自動車に乗るのも厭わしく考えていた90年代から00年代のトム・ヨークの音楽観の重要な核心を形成する閉塞的な雰囲気も醸し出される。しかしそのメロディーには美的な感覚が潜んでいる。

 

クローズ曲では、「Fake Plastic Tree」、「Black Star」に象徴されるヨークのソングライティングの特色である「繊細なプリズムのような輝き」が微かに甦っている。それはいわば、暗鬱さや閉塞感という表向きの印象の先にある、ソングライターとしての最も美しい純粋な感覚の結晶である。最後に本曲が収録されていることは、旧来のファンにとどまらず、ザ・スマイルの音楽を新しく知ろうとするリスナーにとっても、ささやかな楽しみのひとつになるに違いない。

 


86/100




Featured Track「Bending Hectic」







トム・ヨークがイタリアの映画監督ダニエレ・ルケッティによる新作『CONFIDENZA(コンフィデンツァ)』の音楽を担当

 Green Day  『Saviors』

 

Label: Reprise 

Release: 2024/01/19

 

 

Review    


USパンクシーンの分水嶺

 

オレンジ・カウンティのポップパンク・ムーブメントの立役者であるグリーン・デイのフロントマン、ビリー・ジョーは、遡ること2020年、ソロアルバム『No Fun Mondays』を発表し、「Kinds in America」のような有名曲から「War Stories」のようなマニアックなカバーに至るまで、網羅的にパンクのアレンジを施し、みずからの音楽的な背景をファンに対して暗示していた。

 

実際、私自身は、このアルバムをかなり長い期間楽しんだ思い出があるが、ソロ活動の影響が『Saiviors』に何らかの働きかけをしていないといえば偽りになるだろう。「Saviors」は、他のジャンルの曲のカバーやオマージュというポップ・パンクの重要な一側面を表し、それが本作のオープニングを軽やかに飾る「American Dream is Killing Me」に色濃く反映されていることは、彼らのファンであればお気づきになられるはずだ。つい一ヶ月前、マンチェスター・ガーディアン誌の取材に応じたフロントマンのビリー・ジョーは、『Saviors』が、政治的な風刺を込めるというバンドのかつてのアプローチ、ひいてはパンクロックの原点に回帰したことについて、

 

ーーこの数年間、ドナルド・トランプ政権に対する不信感や嫌悪感が内面にあり、それがこのアルバムで半ば顕在化したーー

 

という趣旨のことを率直に話していた。それは、Black Flagのヘンリー・ロリンズのように、アジテーションを交えた風刺という形でもなく、NOFXのファット・マイクのように、斜に構えたようなブッシュJr.政権に対する左翼的な鋭い風刺となるわけでもない。グリーン・デイのビリー・ジョーの風刺やシニズムというのは、ストレートでユニークな感覚が込められている。それはおそらく、90年代の名盤『DOOKIE』の時代から普遍のものであったのではないだろうか。

 

このアルバムに何らかの意味が求められるとしたら、「パンクロックの全盛期の熱狂性をその手に取り戻す」ということにある。グリーン・デイもまた、好意的に捉えると、ポップパンクが完全には死んでいないこと、そしていまだに古びていないことを対外的に示そうしたと推測される。ポップ・パンクは、現在、Sum 41、NOFXのように、全盛期の水準以上のリリースが行えないのであれば、せめてもの思いで最後のリリースをおこない、これまで支えてきてくれたファンに対する恩返しという形でラストツアーを行うグループもいる。かと思えば、Blink 182のように、持病を抱えながら再結成し、全盛期に劣らぬ痛撃な作品をリリースするグループもいる。いわば、「USパンクシーンの分水嶺」ともいうべき時期に差し掛かっていることは明確であり、それはおそらく、グリーン・デイのメンバーも薄々ながら気がついていることだろう。

 

そして、グリーン・デイが旧来からポップ・パンクの親しみやすさとは別に示唆してきた米国社会に対する風刺というのは、現実的に看過できない出来事に対してシニカルな眼差しを注ぐということでもある。それらが不満を抱えるティーンネイジャーの心になんらかの形で響くであろうことは想像に難くない。

 

それは政治的なポジションとは関係なく、若者たちの不満を掬い、それらを親しみやすい痛快なパンクロックソングとして昇華してきたことは、Bad Religionをはじめとするパンクバンドと同様である。「American Dream is Killing Me」では「American Idot」の風刺的なバンドの姿に立ち返るかのように、ケルト民謡のイントロから激烈なパンク・アンセムへと曲風を変化させる。


しかし、グリーンデイは、全盛期の時代に立ち返りながらも、未知のチャレンジを欠かすことはない。The Monkeesの「Daydream Biliever」を思わせるメロディーを絡めながら、オーケストラ風のストリングスを導入し、ドラマティックな展開を呼び起こす。その後、アンセミックなパンクナンバーに戻るが、どうやら、曲の後半でもなんらかのオマージュが示されているらしい。

 

「Look Ma, No Brains!」では、スケーター・カルチャーの重要な側面である疾走感を刺激的なパンクチューンにより縁取っている。メタルのようなパワフルさ、重厚感はもちろん、オレンジ・カウンティのパンクバンドらしい陽気なイメージが合致を果たした痛快なパンクソングだ。愚かであることをいとわず、それをシンプルで聞きやすいパンクソングに昇華する技術にかけては、グリーンデイの右に出るものはいない。それに加えて、ピカレスクなイメージを付け加え、フロントマンは現在、折り目正しく、禁酒中であるにもかかわらず、パンクというアティティードから醸し出される音楽の力により、バッドボーイのイメージをあえて作り出そうとしている。これは、ほとんどビリー・ジョーによるシニカルなジョークでもあるといえるのだ。


 

その後も、バンドとしての引き出しの多さ、間口の多さを伺わせる曲が続く。「Boddy Sox」は、グリーン・デイのバラードソングというもうひとつの側面が立ちあらわれ、一気にパワフルでノイジーなロックソングへと変遷を辿る。90年代のオルタナティヴの形を自分なりのスタイルの色に変えてしまうソングライティングの技術は卓越しており、これらの静と動の形式は一定のクオリティを擁しているが、いくらか使いふるされたオールド・スタイルと言えるかも知れない。ただ、その中にもミクスチャー・ロックに近いアプローチが取り入れられることもあり、ラウドロックを好むリスナーにとっては聞き逃すことが出来ないナンバーとなるはずだ。

 

アルバムの中盤でも話題曲に事欠かない。「One Eye Bastard」は、レスポールの芯の太いフックの効いたギターソロで始まり、ヘヴィメタルの影響を交え、アンセミックな展開に繋げていこうとする。しかし、惜しむらくは、曲の中に技巧を凝らしすぎている部分があり、これがそのまま曲のスムーズな進行を妨げている側面もなくはない。


曲そのもののシンプルさやわかりやすさがグリーン・デイの一番の魅力であったわけだが、それとは正反対に曲をこねくりまわすような不可解な難解さをもたらしている。「American Idiot」の時代のアンセミックな空気感を呼び覚まそうとしているのは理解出来るけれど、ジョーによるサビのシャウトの部分も熱狂性が感じられず、エネルギーの爆発とはならず、少しだけ不発に終わってしまっている。ただ、これは、好意的な見方をすると、バンドの新しい挑戦のプロセスを示したものに過ぎず、この先に何か次なる完成形が示される可能性もあるかもしれない。まだ見ぬ作品に期待しよう。

 

「Look Ma, No Brains!」と同様に先行シングルとして公開された「Dilemma」は、アルバムの序盤では珍しくフロントマンやバンドのプライベートな側面が伺え、グリーン・デイの隠れた魅力である、しんみりとしたナイーブな感覚と融合を果たしている。ビリー・ジョーのボーカルについては、ララバイのような哀愁を漂わせているが、やはりブルーな感じにとどまることなく、ラウドでアンセミックなライブパフォーマンスを意識した展開に繋がっていく。他の曲と比べて、強い熱量がうかがえ、それらが90年代のミクスチャーロックのような雰囲気を醸し出す。


「1981」では「Look Ma, No Brains!」と同様にスケーターパンクに象徴されるスピードチューンを披露している。「Dookie」の時代、もしくはその背後にあるパンクムーブメントの熱狂を何らかの形で蘇らせたい、というバンドの意図を読み取ることができる。そして、序盤の収録曲と同じように、ロックとパンクの中間点を行く方向性に加えて、メタルの響きが織り交ぜられている。これはSum 41に対するリスペクトが示された曲であるとも推測できる。そして、ここにもまたオレンジ・カウンティを代表するロックバンドとしてのひそかなプライドが伺い知れる。

 

アルバムの前半部で勢いを掴み、パンクの良質な側面を示そうとしているグリーン・デイではあるものの、「Goodnight Adeline」と「Coma City」に関しては中盤の中だるみを作り出す要因ともなっている。


「Goodnight Adeline」のアコースティックギターを重ねたトラックは、グリーン・デイのセンチメンタルな一面が伺える曲であり、ある意味では序盤のノイジーなパンクソングに対するクールダウンのような意図が込められている。しかし、その繊細な面が示されたかと思うと、単調なノイジーな展開へと舞い戻ってしまう。明るい側面やパワフルな感覚をゴールに設けるということは素晴らしいが、どことなくこのあたりからついていけないという感じが出てくる。


ただ、それだけでは終わらない。続く「Coma City」では、イントロのクールな同音反復のギターに続いて、全盛期を彷彿とさせる精彩感のある展開に戻るのは面目躍如といえるか。曲の中で、微妙なテンションの落差やダイナミックの変化を駆使しながら、まるで落ちかけた吊り橋の上を走り去るかのように、すんでのところで、これらのスピードチューンは凄まじい速度で駆け抜けていく。ある意味では、全盛期のパンクのスリリングさを感じ取ることができるはずだ。

 

 

 「Corvette Summer」は、バンドそのものが90年よりも前の80年代の時代に立ち返るかのようであり、彼らの音楽に対する普遍的な愛が滲む。LAの産業ロックの空気感が反映されている。それらは、ブライアン・アダムスのようなアメリカン・ロックと融合を果たす。途中のギターソロもハードロックのようなロマンを呼び覚まし、バンドとしてはめずらしく、ギターヒーローへの親近感が示しているのに驚きを覚える。続く「Suzie Chopstick」においても、ブルース・スプリングスティーンに象徴される80年代のアメリカン・ロックに対するリスペクトが示されるが、それこそグリーン・デイにとっての「理想的なアメリカ」の姿であるのかもしれない。そして、それらのロックの中にはブルージーな雰囲気が含まれる。悲しみとまではいかないが、これらは現代の米国社会に対するバンドの尽くせぬ思いが込められているとも解釈できる。

 


ビリー・ジョーがソロアルバムで、パンクのアレンジに挑戦したことは、冒頭で述べたが、それらをバンドとしてどのように昇華するのかという試みを、「Strange Days Are Here To Stay」に見出すことができる。


『No Fun Mondays』において、往年のポピュラーなヒット曲や隠れた名曲のカバーを行い、それらをどのようにして、自分のものにするのかを模索してきたビリー・ジョーであるが、それらの試みは『Dookie』の時代のモンスターバンドの片鱗を伺わせる。同時に、バンドがパンクの中に含まれる親しみやすいメロディー、つまり、簡単に口ずさんだり叫ぶことができるメロディーを大切にしてきたことが分かる。実際、シンガロング必須の熱狂性を誘発することもある。つまり、グリーン・デイというバンドの最高の魅力が、この曲に宿っていると言えるのだ。

 

「Living In 20's」では、 メタリックなギターとAC/DCを想起させるハードロックの影響を込めたシンプルなナンバーで、バンドがパンクというジャンルのみに影響を受けているというわけではなく、スタンダードなロックバンドとしての本性を併せ持つことを暗示している。続いて、アルバムの後半では、全体として起伏のあるストーリーを描くかのように、「Father To a Son」においてハイライトを作り、ドラマティックな情感をフォークロックのスタイルで表現する。曲の後半では、GN'Rのコンセプトアルバム『Use Your Illusion』に見受けられるロック・オペラのようなアプローチを選び、一般的なパンクバンドとは異なる特性を示そうとしている。


終盤に至っても、グリーン・デイはパンクという枠組みにとらわれることなく、本質的には広義におけるロックに焦点を置くバンドであることを示唆する。「Saviors」ではギターリフのフックに焦点が絞られ、ライブセッションにより、どのように理想形に近づけるのかを模索している。

 

クローズ曲「Fancy Sauce」ではシンプルなスリーコードを用いながら、ロックソングの最大の魅力とは何かを追求している。どうやら何らかの祝福的な響きを追い求めているのは確かのようであるが、それはまだ予定調和な響きに止まり、魂を震わせるような表現には至っていないのが少し残念なところ。


ただし、ほんわかした幸福感を示そうとしたということは、従来のグリーン・デイの作品にはあまり見られなかったと思う。これが果たしてロックバンドとしての進化なのか、それとも、その逆であるのかまでは断定しきれない。リスナーの数だけ答えが用意されているといえよう。

 



80/100

 

 

Featured Track 「Strange Days Are Here To Stay」

 Marika Hackman 『Big Sigh』


 

Label: Chrysalis 

Release: 2024/01/12

 

 

Review    -感情の過程-

 

 

リズムマシンやシンセサイザーを複合的に折り重ねて、シンプルでありながらダイナミックなソングライティングを行うイギリス/ハンプシャーのシンガーソングライター、マリカ・ハックマンの最新作『Big Sigh』は、冬の間に耳を澄ますのに最適なアルバムといえそうである。なぜなら雪に覆われた山岳地帯を訪ね歩くような曰くいいがたい雰囲気に作品全体が包まれ、それは小さな生命を持つ無数の生き物がしばらくのあいだ地中の奥深くに眠る私たちが思い浮かべる冬のイメージとピタリと合致するからである。アーティストは、Japanese House、Clairoといった、今をときめくシンガーに親近感を見出しているようだが、マリカ・ハックマンのソングライティングにも親しみやすさやとっつきやすさがある。初見のリスナーであっても、メロディーやリズムが馴染む。それは、その歌声が聴覚にじわじわ浸透していくといった方が相応しい。

 

オープニングを飾る「The Ground」は、インタリュードの役割を持ち、ピアノとシンセ、メロトロンの音色が聞き手を摩訶不思議な世界へといざなう。微細なピアノのミニマルなフレーズを重ね合わせ、繊細な感覚を持つマリカ・ハックマンのポップスの技法は、アイスランドのシンガーソングライターのような透明感のある輝きに浸されている。透明なピアノ、フォーク、メディエーションに根ざした情感たっぷりのハックマンのボーカルは、春の到来を待つ雪に包まれた雄大な地表をささやかな光で照らし、雪解けの季節を今か今かと待ち望む。それはタイムラプスの撮影さながらに、壮大な自然の姿を数時間、ときには十数時間、高性能のカメラで撮影し、編集によりスローモーションに差し替えるかのようでもある。ピアノのフレーズやボーカルが移ろい変わる毎に、崇高で荘厳な自然がゆっくり変化していく。オーケストラのストリングに支えられ、雪解けの季節のように、美しい輝きがたちどころにあらわれる。冬の生命の息吹に乏しい深閑とした情景。いよいよそれが、次の穏やかな光景に刻々と変化していくのだ。

 

しかし、春のおとずれを期待するのは時期尚早かも知れない。完全にはその明るさは到来していないことがわかる。「No Caffeine」は、従来の作品で内面の情景を明晰に捉えてきたアーティストらしい一曲で、それらは現代と古典的な世界を往来するかのようだ。少し調律のずれたヴィンテージな感じのピアノの音色を合わせたチェンバーポップ風のイントロに続いて、ハックマンは内面の憂いを隠しおおせようともせず、飄々と詩をうたう。最初のビンテージな感覚はすぐさま現代的なシンセポップの形に引き継がれ、それらの懐古的な感覚はすぐに立ち消える。しかし、最初の主題がその後、完全に立ち消えたとまでは言いがたい。それは曲の深いところで音を立ててくすぶり続け、他のパートを先導し、その後の展開にスムーズに移行する役割を果たす。セント・ヴィンセントを思わせるシンセのしなやかなベースラインは、ロックのスタンダードなスケールを交え、ハックマンの歌声にエネルギーを与える。それらのエナジーは徐々に上昇していき、内的な熱狂性を呼び覚ます。イントロでは控えめであったハックマンの声は、シンセの力を借りることにより、にわかに凄みと迫力味を帯びてくる。そして曲のクライマックスにも仕掛けが用意されている。オープニングと同様、オーケストラのストリングスのレガートを複合的に織り交ぜることで、イントロの繊細さが力強い表現へと変化するのだ。

 

本作の序盤における映画のサウンドトラックやオーケストラを用いたポップスのアプローチは、次曲への布石を形作っている。そして、ある意味では続くタイトル曲の雰囲気を際立たせるための働きをなす。本作の序盤に満ちる内的な憂愁は、リバーブやフェーザーを基調とするエレクトリックギターに乗り移り、シンセポップを下地にしたオルタネイトなロックへと変遷していく。

 

「大きなため息」と銘打たれたこの曲でも、マリカ・ハックマンの歌声には、なにかしら悶々とした憂いが取り巻き、目に映らぬ闇と対峙し続けるかのように、サビの劇的な展開に至るまで、力を溜め込み続け、内面の波間を漂うかのように、憂いあるウェイブを描こうとする。サビで溜め込んだ力を一挙に開放させるが、相変わらず、それは完全な明るさとはならず、深い嘆息を抱え込んでいる。しかし、イントロの静かな段階からノイジーなサビへと移行する瞬間に奇妙なカタルシスがあるのはなぜか。ハックマンが抱える痛みや憂いは他でもなく、見ず知らずの誰かの思いでもある。表向きに明かされることのない、離れた思いが重なりあう時、それは孤独な憂いではなくなり、共有されるべき感覚へと変わる。本当の意味で自らの感情に忠実であるということ、つまり、負の感覚を許容することにより、その瞬間、ハックマンのソングライティングが報われ、他者に対する貢献という類稀なる表現へと昇華されるのだ。苦悩は、内面の感情性を別のもので押さえつけたり、蓋をしようとすることでは解決出来ないのである。

 

「Blood」はハックマン自身による、ささやかなボーカルとアコースティックギターの組み合わせが、最終的にオルタナティヴ・ポップ/フォークという形に昇華されている。ビッグ・シーフ、クレイロ、ブリジャーズをはじめとする、現代のミュージックシーンの重要な立役者の音楽性の延長線上にあるが、その中でもシネマティックな音響効果をアーティスト特有の素朴なソングライティングに織り交ぜようとしている。曲そのもののアプローチは、トレンドに沿った内容ではあるけれども、曲の中盤からは、ダイナミックな展開が繰り広げられ、迫力溢れる表現性へと変化する。イントロから中盤にかけてのアコースティックのベースラインを意識した演奏を介して、ピアノやシンセを複合的に組み合わせ、表面的な層に覆われていた内郭にある生命力を呼び起こすかのようである。そして、タイトルに即して言及するならば、それは内面の血脈が波打ちながら表面的な性質の果てに力強く浮上していく過程を描いているとも言える。

 

 

「Blood」

 

 

「Hanging」は、夢の実現の過程における葛藤のような感覚が歌われ、複数のレーベルをわたりあるいてきたシンガーソングライターとしての実際的な感慨がシンプルなポピュラー・ソングのなかに織り交ぜられている。これは、昨年のThe Golden Dregsの最新作「On Grace & Dignity」で見受けられたように、みずからの人生の重荷をモチーフにしたと思われる楽曲である。しかし、マリカ・ハックマンの楽曲は、単なる憂いの中に沈むのを良しとせず、その憂いを飛び上がるための助走のように見立てている。そして最終的には、アンセミックなポップバンガーへ変化させ、4分弱の緊張感のあるランタイムに収めこんでいる。しかし、タイトル曲と同じように、憂鬱や閉塞感のような感覚が、サビという演出装置により一瞬で変貌する瞬間に、驚きとカタルシスが求められる。とりもなおさず、それは人間の生命力の発露が、頼もしさを感じるほど発揮され、背後のバックトラックを構成するピアノ、シンセ、リズムマシン、そしてマリカ・ハックマンの霊妙なボーカルにしっかりと乗り移っているからである。生命力とは抑え込むためにあるのではなく、それを何らかの形で外に表出するために存在する。それがわかったとき、共鳴やカタルシスが聞き手のもとにもたらされ、同時に、にわかに熱狂性を帯びるのである。 

 


「Hanging」

 

 

しかしながら、「Hanging」で一時的に示された一瞬の熱狂性は、何の目的も持たずに発せられるノイズのように奔放なものにはならず、その後の静謐な瞬間へと繋がっている。「The Lonely House」はアーティスト自身によるピアノの日記とも解釈できるトラックで、ポスト・クラシカルやコンテンポラリー・クラシカルのように楽しめる。しかし、徹頭徹尾、単一のジャンルで構成されるよりもはるかに、この曲は効果的な意味を持つ。それは一瞬の熱狂後にもたらされる静けさがクールダウンの効果を発揮するからであり、聞き手が自らの本性に戻ることを促すからである。そして、アルバムの冒頭で示された情景的な変化は、この段階に来て、優しげな表情を見せる時もある。それは制作者にとっての世界という概念が必ずしも厳然たるものばかりではなく、それとは対象的に柔らかな印象に変わる瞬間が存在する、あるいは、どこかで「存在していた」からなのかもしれない。

 

ハックマンの新作アルバムは、外的な現象と内的な感覚がどのようにリンクしているのかを見定め、それがどのように移ろうのかをソングライティングによってひとつずつ解き明かし、詳細に記録するかのようでもある。歌手の観察眼は、きわめて精彩かつ的確であり、そして内面のどのような微かな変化をも見逃すことはない。そして、一辺倒な表現ではなく、非常に多彩な感情の移ろいが実際の曲の流れ、ときには一曲の中で驚くほど微細に変化することもある。

 

それらの内面的な記録、あるいは省察は、祝福的な表現へと変貌することがある。「Vitamins」では、エレクトロニック/グリッチという現代的なポップスの切り口を通じて、内面的な豊かさへ至るプロセスを表現しようとする。しかし、その感覚は、温かな内面の豊かさに浸されているが、いつもゆらめき、形質というものを持たない。ある形に定まったかと思えば、ダブステップによるリズムを交えながら、エレクトロニックによる別の生命体へと変化していく。それは最終的に、70年代の原初的なテクノの未来的なロマンという形になり、最もダイナミックな瞬間を迎える。しかし、その後、突如それらが途絶え、静かで何もない、何物にも均されていない、本作の序盤とは異なる無色透明の場所にたどり着く。しかし、本当に「たどり着いた」というべきなのだろうか。それは単なる過程に過ぎないのかもしれず、その先もマリカ・ハックマンは貪欲になにかを探しつづける。

 

アルバムの終盤に収録されている「Slime」、「Please Don't Be So Kind」、「The Yellow Mile」では、アルバムの序盤の憂いへと戻り、素朴なインディー・フォークや、ダンサンブルなシンセ・ポップという、本作の重要な核心を形成するアプローチに回帰を果たす。しかし、不思議なことに、中盤の収録曲を聞き終えた後、序盤と同じような音楽性に帰って来たとしても、その印象はまったく同じ内容にならない。確実に、作品全体には、表向きのものとは別の長い時間が流れている。受け手が、そのことをなんとなく掴んだとき、このアルバムがフリオ・コルタサルの「追い求める男」のような神妙な意味合いを帯びるようになる。同じような出来事が起きた時、おしなべて多くの人は「同じことが起きた」と考える。けれど、それは先にも述べたように単なる思い込みにすぎない。どの出来事も同じ意味を持つことはありえないのである。

 

 

85/100

 


 

 


Label: Geffen

Release: 2023/01/12



Review 

 

グラミー賞アーティスト、カリ・ウチスはR&Bの清新なスタイルを模索するシンガーであるとともに、コロンビア、そして、ラテン・カルチャーの重要な継承者でもある。

 

最近では、南米や南欧文化に世界的な目が注がれているのは明らかである。いわば昔は、ボサノバ、サンバ、サルサを筆頭に、「ワールド・ミュージック」というジャンルで語られることが多かったラテン音楽が、世界のポピュラー音楽の最前線になりつつあるのは、時代の流れといえるかもしれない。それらは、レゲトンという形になったかと思えば、アーバン・フラメンコという、ポピュラー・ミュージックのトレンドの形になることもある。ロザリア、バッド・バニーに象徴されるように、南米にルーツを持つポップ・アーティストやラッパーたちに対して、ビルボード、及びレコーディング・アカデミーが軒並み高い評価を与えるようになったという事実は、南米という地域の文化が世界的に浸透するようになってきている証ともいえるかもしれない。

 

カリ・ウチスによる最新作『ORQUIDEAS』は、昨年の『Red Moon In Venus』の続編で、前作と同様にスペイン語で歌われている。上記のアートワークを見ると分かる通り、真の意味で続編のような意味を持ち、原題は、英語で「Orchid」、日本語で「ラン」を意味する。


アーティストみずからの肉体を花そのものに見立てたアートワークは、クリムト、アルチンボルドのパッチワークの技法を模し、肉体そのものにより鮮烈な美を表現しようと試みている。これらの表現性が南米文化の含まれる独特な情熱を秘めた美の表現の一環であることは想像に難くない。


前作のアルバムでは、メロウで、しっとりとしたスロウなR&Bのソングライティングにより、音楽における射幸性と高揚感のみがアーティストの魅力ではないということが示されたが、果たしてその反動によるものなのか、最新作はアップテンポなトラックで占められている。リアルなダンスミュージックのビートを意識し、ライブでの鳴りと観客との協和性を重視している。

 

「Como Asi?」 は、ラテンの文化を音楽というファクターを介し追い求め、ディスコ/バレアリックサウンドを基調とするダンサンブルなビートの中に妖艶さを漂わせる。アルバム全体を通じて、バリエーションの幅広さを意識し、変拍子を交え、プログレッシヴ・テクノのような音楽性を内包させ、曲の全体に起伏を設けている。これはシンガーソングライターとしてのたゆまぬ前進をあらわし、そして、DJとしての意外な表情を伺わせるものである。「Me Pongo Loca」そのアプローチは、ビヨンセやデュア・リパが示すようにハウスとポップの融合にある。そして、カリ・ウチスのダンスミュージックは、表向きからは見えないような形で、ラテンの情熱がその内側に秘められ、それが奥深い領域で、ふつふつとマグマのように煮えたぎっている。

 

 このアルバムのもう一つの際立った特徴は、ジェシー・ウェアが昨年のアルバムで示唆したように、ディスコ・サウンドのエンターテイメント性のリバイバルにある。それらをスペイン語の歌詞とその背後に漂うラテンのテンションが融合を果たし、部分的に清新な音楽が生み出されていることだ。「Iqual Que Un Angel」は、クインシー・ジョーンズのR&B、フュージョンの延長線上にあるノスタルジア溢れるアーバン・ソウルを、ラテンの文化性と結びつけようとしている。この曲は、日本のシティ・ポップにも近い雰囲気があり、バブリーな空気感を心ゆくまでたのしめる。「Pensamientos Intruviors」も「Iqual Que Un Angel」の系譜にあり、ハウスのグルーブ感が押し出され、バレンシア沖のサンゴ礁のエメラルドの輝きを思わせるものがある。

 

旧来のソウルのアプローチの後には、レゲトンに象徴づけられるモダンなサウンドが「Diosa」には見いだせる。しかし、トレンドのアプローチの中にも、モダンなヒップホップの要素を交え、グリッチを織り交ぜたりと、複数のアヴァンギャルドな工夫も見受けられる。その中で、ウチスの同音反復の多いスペイン語のボーカルが中音域の通奏低音のような響きを形成し、その周りに独特のグルーヴ、いわば音のウェイブを呼び起こし、それらがどこまで永続するのかを試行錯誤している。それらは最終的に、グリッチノイズの中にモジュラーシンセの音色がうねりながらその中核を貫いて、強烈なエナジーを生み出している。


ラテン音楽の継承者としてのアウトプットは、現時点で多数のリスナーから支持されている「Te Mata」に登場する。イントロのメロウな響きの後には、フラメンコ・ギター、コンガ/ポンゴ、ギロといった、ラテン音楽のパーカッションを配し、ムードたっぷりに哀感のあるフレーズをカリ・ウチスはポピュラーソングとして紡ぐ。リズムの前衛性は、ラテンのメロディーとともに、この曲にラテン文化の象徴的な意味合いをもたらす。フラメンコ調の流動的なリズムがあったかと思えば、アルゼンチン・タンゴに象徴される二拍子のリズムを複合的に配している。それらの底抜けに陽気なリズムは、最終的にフラメンコ調のスケールに引き立てられ、曲のクライマックスにドラマティックな演出を付与する。アウトロはタンゴ調のピアノでしとやかに終わる。

 

 

「Te Mata」

 

 

続く、「Perdiste」、「Young Rich & In Love」、「Tu Corazon & Es Mio...」は、ハウスとポップの融合というトレンドの形が示される。その中に、チルウェイブの爽やかさ、エレクトロ・サウンドの前衛性が刺激的にミックスされ、風通しのよいクリアなナンバーに昇華されている。これらは、イタロディスコやバレアリックのクラブミュージックの反映が心地良いサウンドとして昇華されている。「Munekita」は、今、最もトレンドな曲といえ、アルバムのアートワークに象徴される艶やかな雰囲気にレゲトンの要素をどのように浸透させるのかを試作しているように思える。この曲でも、エンターテインメント性を重要視しており、ボーカルのテクスチャーに流動的な動きをつけ、展開そのものに変拍子を加え、ビートの革新性に刺激的な響きをもたらす。

 

アルバムの最後の数曲では、序盤や終盤の収録曲で示されたバリエーション豊かな音楽性のミックスが楽しめる。その中に、ポップスの中にあるラテン音楽、ローエンドの強いハリのあるバレアリック・サウンドを基調としたハウス/プログレッシヴ・ハウスのダンスミュージックのアプローチ、続く、「Heladito」では、『Red Moon In Venus』で示されたR&Bのスロウバーナーのモチーフが再登場する。


「Dame Beso// Mueveto」では、サンバ/サルサをダンス・ミュージックという側面から示している。テネリフェ島やリオのカーニバルに見い出せるようなエンターテイメント性は音楽という枠組みをかるがると超越し、最終的にはリアルに近い体験に近づく。ウチスは、これらのダンスミュージックを通じて、ラテン音楽やカルチャーに鮮烈な息吹を吹き込む。本作の一番の醍醐味は、ラテン文化の純粋なエンターテイメント性とその躍動感に求められるのではないでしょうか。


 

 

78/100

 

 

 James Bernard & anthéne  「Soft Octaves」


 

Label: Past Inside the Present

Release: 2023/12/31

 

 

 

Review


 

James Bernard(ジェイムズ・バーナード)は、カナダ/トロントを拠点に活動するアンビエントアーティストで、多数のバック・カタログを擁している。 今作でコラボレーターとして参加したanthéne(Brad Deschamps)は、トロントのレーベル、Polar Seasの主宰者である。


ジェイムズ・バーナードによると、『Soft Octaves』の主なインスピレーションは、私たちの「不確実性と希望の時代」にあるという。ヘッドホンをつければ、別世界へと誘われ、カラフルで想像力豊かな地平線を発見することができる。ジェームズ・バーナードはそれを以下のように表現している。


窓のシェードの向こうの燐光が最初にまぶたを乱す、その限界の瞬間を特定するのは難しい。

 

あるときは、千尋の夢の最後の数瞬間の、長い尾を引く部分的な記憶であり、またあるときは、不安であれ熱望であれ、その後に続くものを予期するときの抑えがたい下降するため息である。あなたの無意識の不在の間に何世紀もの時間が流れている。


このアルバムには、パンフルートのような音色を用いたアブストラクト・アンビエントを主体とする楽曲が際立つ。その始まりとなる「Point Of Departure」は、超大な、あるいは部分的な夢幻への入り口を垣間見るかのようでもある。しかし、アンビエントの手法としては、それほど新奇ではないけれども、アナログシンセにより描出されるサウンドスケープには、ほのかな温かみがある。そしてその上に薄くギターを被せることにより、心地よい空間性を提供している。

 

「Flow State」でも温和な音像が続く。(アナログ)ディレイを用いたシンセの反復的なパッセージの上にアンビエント・パッドが重ねられる。 それらの重層的な音の横向きの流れは、やはりオープニングと同様に、夢想的なアトモスフィアを漂わせている。夢想性と論理性を併せ持つ奇妙な曲のコンセプトは、聞き手に対して幻想と現実の狭間に居ることを促そうとする。その上にギターラインが薄く重ねられるが、これが微妙に波の上に揺られるような感覚をもたらす。

 

 「Saudade」ではオープニングと同様に、パンフルートをもとにしたアンビエントの音像にノイズを付け加えている。アルバムの冒頭の三曲に比べると、ダーク・アンビエントの雰囲気がある。しかしギターラインが加わると、その印象性が面白いように変化していき、神妙な音像空間が出現する。それらの空気感は徐々に精妙なウェイブを形作り、聞き手の心に平安をもたらす。

 

「Trembling House」はリバーブ・ギターで始まり、その後、ロサンゼルスのアンビエント・プロデューサー、marine eyesのボーカルが加わる。マリン・アイズは、今年発表した「idyll (Extented Version)」の中で、カルフォルニアの太陽や海岸を思わせるオーガニックなアンビエントを制作していて、この曲でも、自然味溢れるボーカルを披露している。器楽的なアイズのボーカルはディレイ・エフェクトの効果の中にあって、安らぎと癒やしの感覚をもたらしている。

 

「Overcast」は叙情的なアンビエントで、イントロの精妙な雰囲気からノイズ/ドローンに近い前衛的な作風へと変化していく。しかし、この曲は上記の形式の主要な作風を踏襲してはいるが、かすかな感情性を読み取ることが出来る。途中に散りばめられる金属的なパーカッションの響きは、制作者が述べるように、夢幻の断片性、あるいは、それとは逆の意識の中にある無限性を示しているのだろうか。当初は極小のフレーズで始まるが、以後、極大のなにかへと繋がっている。サウンドスケープを想起することも不可能ではないが、それは現実的な光景というよりも内的な宇宙、もしくは、意識下や潜在意識下にある宇宙が表現されているように思える。


続く「Soft Octave」もオーガニックな質感を持つアンビエント。その中には雨の音を思わせるかすかなノイズ、そして大気の穏やかな流れのようなものがシンセで表現されている。聞き手は小さな枠組みから離れ、それとは対極にある無限の領域へと近寄る手立てを得る。かすかなグリッチノイズは、金管楽器のような音響性を持つシンセのフレーズにより膨らんでいき、聞き手のイメージに訴えかけようとする。核心に向かうのではなく、核心から次第に離れていこうとする。音像空間は広がりを増していき、ややノイジーなものとなるが、最後には静寂が訪れる。

 

「Cortage」は、Tim  Heckerが表現していたようなアブストラクトなアンビエントの範疇にある。しかし、それは不可視の無限の中を揺らめくかのようである。暗いとも明るいともつかないイントロからシンセのパッドが拡大したり、それとは正反対に縮小していったりする。フランス語では、「Cortage」というのは「葬列」とか「行進」という意味があるらしい。ぼんやりとした霧の中を彷徨い、その先にかすかに見える人々の影を捉えるような不可思議な感覚に満ちている。シネマティックなアンビエントともいえるが、傑出した映画のサウンドトラックと同じように、独立した音楽であり、イメージを喚起する誘引力を兼ね備えていることが分かる。

 

「Renascene」は、Chihei Hatakeyamaが得意とするアブストラクトアンビエントを想起させる。精妙な音の粒子やその流れがどのようなウェイブを形成していくのか、そのプロセスをはっきり捉えることが出来るはずである。その心地よい空間性は、現代的なアンビエントの範疇にある。しかし、曲の最後では、グリッチ/ノイズの技法を用い、その中にカオスをもたらそうとしている。表向きには静謐な印象のあるアンビエントミュージックがそれとは逆の雑音という要素と掛け合わされることで、今までになかったタイプの前衛音楽の潮流ができつつあるようだ。

 

『Soft Octaves』のクライマックスを飾る「Summation」では、James Bernard、anthéneの特異な表現性を再確認出来る。


アルバムのオープニングと同じように、夢想的、あるいは無限的な概念性を込めた抽象的なアンビエントは、ニューヨークのRafael Anton Irissari(ラファエル・アントン・イリサーリ)の主要作品に見受けられる「ダーク・アンビエント」とも称されるゴシック調の荘厳な雰囲気があり、表向きの癒やしの感覚とは別の側面を示している。この曲は、威厳や迫力に満ちあふれている。


ジェームズ・バーナードが語るように、本作は、シュールレアリスティックな形而上の無限性が刻印され、クローズ曲が鳴り止んだのちも、アルバムそのものが閉じていかないで、不確実で規定し得ない世界がその先に続いているように思えてくる。希望……。それは次にやって来るものではなく、私たちが見落としていた、すでにそこに存在していた何かなのかもしれない。


 

 

90/100

 

 

 

 



アンビエントの名盤ガイドもあわせてお読みください:


アンビエントの名盤 黎明期から現代まで

 Madeline Kenney  『The Same Again: ANRM(Tiny Telephone Session)

 

 

Label: Carpark

Release: 2023/12/15


Listen/Stream


 

Review


米国のレーベル、Carparkはインディーロックを中心に注目の若手のリリースを行っている。ただ、必ずしもロックだけのリリースにこだわっているわけではないらしく、ポピュラーミュージックのリリースも行っている。


今年7月に発売された『A New Reality Mind』の再録アルバム『The Same Again: ANRM(Tiny Telephone Session)』は、シンガーソングライターの音楽の本質的な魅力に迫るのに最適な一枚。本作は最新作をオープンのアップライト・ピアノを中心に再録したもので、オークランドのタイニー・テレフォンでわずか一日で録音された。

 

最新アルバムでは、ハイパーポップやエクスペリメンタルポップを中心とする前衛的なポップスを展開し、ポピュラー・ミュージックの新しいスタイルに挑戦していたが、それらの表向きの印象は、この再録アルバムで良い意味で裏切られることになる。彼女は、あらためてSSWとしてのメロディーセンスや歌唱力をレコーディングのプロセスを通じてリアルに体現しようとしている。『A New Reality Mind』においてマデライン・ケリーは、受け入れ、自己を許し、前に進もうとする意思によるプロセスを示しているが、今回の再録アルバムにおいては、バラードというスタイルを選ぶことによって、最新作の持つ潜在的な側面に焦点を絞ろうとしている。

 

このアルバムはスタジオ・レコーディングではありながら、アコースティック・ライブのようなリアルな感覚が感じられるのも一つの特徴である。

 

例えば、本作のオープナー「Plain Boring Disaster」では原曲のテンポをスロウダウンさせ、そして旋律をより情感たっぷりに、さらに丹念に歌いこむことにより、まったく別の曲のように仕上げていることに驚きを覚える。もちろん、モダンなポピュラー・シンガーとしてのスタンスを選んだ最新作『A New Reality Mind』に比べると、別人のような歌唱法を堪能することが出来る。中音部の安定感のある歌声から、高音部のファルセット、及び、それとは対象的な、つぶやくようなウィスパー風の低音のボイスに至るまで、マデライン・ケニーは多彩な歌唱法を駆使しながら、それらを「許し、受容、前進」といった温かみのあるテーマを擁する旋律とピアノ演奏で包み込もうとしている。何より、ピアノ・バラードはシンガーとしての実力が他のどの形式の曲よりも明らかになるため、歌手としての本物の実力が要求されるが、マデライン・ケニーは平均的な水準を難なくクリアするにとどまらず、それ以上の何かを提供しようとしている。


オープニングで示されたピアノ・バラードという形式はその後、クラシックや映画音楽、劇伴音楽の影響を交えた曲風へと変遷をたどる。「Superficial Conversation」ではマックス・リヒターを彷彿とさせる正調のミニマル音楽の系譜にあるイントロに導かれるようにして、歌手はオリジナル作よりも伸びやかなビブラートを披露している。そこには、最新作よりも広やかな開放感や晴れやかさすら感じられ、なおかつ歌手の持つ潜在的なポテンシャルを捉える事もできる。そして、このアレンジ曲では、バックコーラスを導入し、より親しみやすいポピュラー・ソングに再構成されている。曲の後半のピアノ・ソロに関しては、きわめて伴奏的なものではありながら、フレーズの進行に淡いエモーションとクリアな感覚を留めることに成功している。

 

最新アルバムのハイライト「Reality Mind」の再録は、原曲のエクスペリメンタル・ポップの延長にあるアプローチとは作風が異なる。映画音楽やドラマの挿入歌のような雰囲気を持つこの曲は、ピアノの伴奏に装飾的な音階を加えることで、原曲よりも親しみやすく清々しいポップソングに仕上げている。その他、原曲では相殺されていた印象もある癒しの感覚を上手く引き出している。ボーカル自体も更にハートウォーミングになり、ソウルフルな質感すら持ち合わせている。ケニーの持つ歌声の持つ深い情感に、じっと静かに傾聴したくなるような素晴らしい一曲だ。

 

同じように、最新アルバムの主要曲だった「I Draw The Line」についても、マックス・リヒターの曲を思わせる気品溢れるコンテンポラリークラシックの要素を付加することにより、涼やかな感覚を引き出そうとしている。しかし、ピアノの旋律に乗せられるマデラインのボーカルは、スタンダードなジャズを意識しているように思われる。そして、ミニリズムに即したピアノの楽節は装飾音的な音階の変化を加え、和音そのものを移行させる。その上で、ケニーのボーカルもピアノの演奏に呼応するかのように、歌うフレーズや叙情的な感覚をその中で変化させていく。


その後、コンテンポラリークラシックの影響を交えたスタンダードなバラードソングが続く。「It Carries on」「Red Emotion」は序盤の収録曲と同様に、気鋭のモダンポップのシンガーとは別の実力派シンガーとしての意外な性質を伺い知ることが出来る。


そして、最も注目すべきは、「The Same Thing」におけるアメリカーナ、ジャズの要素を交えたクラシカルなポピュラーミュージックのスタイルにある。例えば、Angel Olsen(エンジェル・オルセン)の歌声にも比するフォーキーなノスタルジアと深い情感を体感出来る。この曲において、マデライン・ケリーは、ささやくような歌声を駆使しながら、シンガーとしての渋さを追求している。もちろん、その後、この曲はピアノの流麗な演奏を介して、ダイナミックな変遷を辿り、最終的には、抑揚や起伏を持つポピュラーソングへの流れを形作っていく。曲の中で、なだらかなストーリー性を設けるようなボーカルの表現力については圧巻というより他ない。

 

本作は全体を通じて多彩な感情性を交え、以後の緩やかな流れを形成している。アルバムの中で淡い哀感を持ち合わせる「HFAM」は、コンテンポラリークラシックを基調としたドラマ音楽や映画音楽のサウンドトラックを想起させるバラードの形式で再構成されている。シンセサイザーの効果が顕著だった原曲よりも、歌声や曲の持つ感情の流れにポイントが置かれているようだ。更にこの曲の後半部では、原曲よりも深いペーソスや哀感がリアルに立ち表れている。

 

以後の収録曲においても、マデラインは自身の歌声を単なる旋律を紡ぎ出すロボットとすることを忌避し、声そのものを生きたアートの表現形態の一つと解釈し、自身の持つ個性、可能性、感情といった精彩感を持つヒューマニティーを遺憾なく発揮し、最終的に色彩的なポップスに昇華している。以後の2曲は、アルペジオを生かしたダイナミックなピアノの演奏、ゴスペルの敬虔な響きを擁するコーラス、あるいは古典的なソウルの影響を含めたメロウかつアンニュイな歌唱法というように、考えられるかぎりにおいて最も多彩なボーカルの形式を披露している。

 

上記の10曲を、最新アルバムの単なる付加物やスペシャル・エディションと捉えることは妥当とは言えず、アーティストにとって非礼となるかもしれない。既存のアルバムがコンテンポラリークラシック、ソウルという異なる形式を通して、新たな姿に生まれ変わったと見るべきか。

 


 

85/100


 

Elephant Gym 『World』

 


 

Label: World Recording

Release: 2023/12/14 


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台湾/高雄のポストロックバンド、Elephant Gym(大象体操)は、KT Chang/Tell Changの兄妹を中心にテクニカルなアンサンブルを強みとして、同地のミュージック・シーンに名乗りを挙げた。大象体操は台湾の大型フェスティバルに多数出演を果たし、同国の象徴的なロックバンドといっても過言ではない。


大象体操の最大の特性は、KT Changのスラップ奏法、そして彼女の涼しげなボーカルラインにある。これが変拍子の多い目眩くような曲構成の中でファンクやジャズ、フュージョン、ラウンジの要素と合致を果たすことで、しなやかなサウンドが生み出される。シカゴやルイヴィルのポスト・ロック/マス・ロックのサウンドとは異なり、日本のLITE、Mouse On The Keysに近いポピュラーミュージックの影響を交えたアーバンなスタイルが大象体操の醍醐味となっている。

 

前作『Dreams』は、リリース情報がイギリスのNMEでも取り上げられていたが、バンドにとって分岐点となるようなアルバムであったことは確かだ。従来のポストロックサウンドと併行し、近未来的な音楽性を付け加え、ポップ音楽の要素に加えてプログレッシヴ・ロックの最前線の音楽を示唆していた。『World』では、デビュー当時の音楽性ーー台湾のポップス、日本のポップス、 フュージョン、ラウンジ、ポストロック/マスロック・サウンドーーを織り交ぜている。ここに、アジア、そして世界の文化を一つに繋げようという、バンドのイデアを見てとってもそれはあながち思い違いとは言えない。これまでエレファント・ジムがクロスオーバーをしなかったことは一度もないが、旧来のアルバムの中でも最も多彩なジャンルが織り交ぜられている。

 

アルバムのオープナー「Feather」は、エレクトロニックの要素を前面に押し出したイントロの後、お馴染みのエレファント・ジムのサウンドが始まる。ラウンジとフュージョンの要素を交えたオシャレな雰囲気のあるサウンドは、東京の都心部の夜の情景を思わせ、Band Apart、Riddim Saunterのアーバンロックサウンドをはっきりと思い起こさせる。しかし、その後に続くサウンドは、紛れもなく大象体操のオリジナル・サウンド。ジャズの影響を絡めたフュージョンに近い展開が続く。演奏の自由度が高く、大きな枠組みを決定しておいてから、そのセクションの中で即興演奏を行っている。 ただし、アンサンブルの演奏が重視されたからと言っても、大象体操のサウンドに精細感やポピュラー性が失われることはほとんどない。新たに加わったブラス・アンサンブルも曲のジャジーな雰囲気を引き立てている。

 

他にも、今作には新たなバンドの試みをいくつも見出すことが出来る。「Adventure」では、AOR/ソフト・ロックの音楽的な性質に、細かなマスロックの数学的なギターロックの要素を付与している。その中にフュージョン・ジャズの影響を交え、ベースの対旋律的なフレーズを散りばめて、涼やかなギターサウンドを披露している。その中にはわずかに、アフリカのジャズであるアフロビートの影響も見受けられ、そして、これが旧来にはなかったようなエキゾチックなロックの印象性を生み出している。全体的な楽曲構造の枠組みで見るかぎり、明らかにマス・ロックの系譜にあるトラックだが、その中にジャズの影響を反映させることにより、清新な音楽を生み出そうとしている。着目したいのは、イントロから中盤にかけての静謐な展開から、ギターのフレーズとドラムの微細なテンションの一瞬の跳ね上がりにより、ダイナミックなウェイブをもたらし、アグレッシヴな展開へ引き継がれていくポイントにある。続いて、曲の後半部では、トリオのバンドのセッション的な意味合いが一層強まり、裏拍を埋めるようなドラムにより、このバンドの象徴的なダイナミックなポストロック・サウンドへと直結していく。

 

「Flowers」は、平成時代のFlippers Guitarの渋谷系を彷彿とさせる小野リサのボサノヴァ、フレンチ・ポップ、ジャズ、日本のポップスを掛け合わせたトラックを背に、KT Changの涼し気なボーカルで始まる。しかし、その後に続くのは実験的な音楽で、主旋律的なベースラインとパーカッションである。この曲は、ベースがメインのメロディーを形成し、ビートを意識した器楽的なチャンのボーカルとパーカッションが装飾的な役割を果たしている。さらに、その後に続く「Name」では、Mouse On The Keysのシンセサイザーの演奏を交えたポスト・ロックの影響下にあるサウンドを繰り広げる。東アジアの都会の夜景を思わせるアーバンな空気感を持つサウンドという側面では、Mouse On The Keysとほとんど同じであるが、この曲における大象体操のサウンドは、さらにラウンジとフュージョン、ファンク寄りである。そして、以前よりも静と動に重点を起き、楽曲の中盤では静謐なピアノのシンプルなフレーズが夜空に輝くかのようだ。

 

今回、もう一つ、大象体操はより高度な試みを行っている。それがオーケストレーションとロックの融合である。この手法は、すでにオーストラリアのDirty Three、カナダのGod Speed You Emperror!、それからアイスランドの Sigur Ros、スコットランドのMOGWAIが示してきたものだが、大象体操が志すのは、キャッチーで掴みやすいサウンドだ。木管楽器のミリマリズムの範疇にある演奏を配し、ボサノヴァのようなスタイリッシュな空気感を生み出し、それらを旧来のバンドのポストロック/マスロックの技法と結びつけようとしている。しかし、時折、カラオケに近いサウンドになるのが欠点であり、これはおそらく別録りをしているらしいという点に問題がある。もしかすると、オーケストラと同時に演奏すれば、さらにリアルなサウンドになったかもしれない。続く「Light」も同じように、ジョン・アダムスやライヒのミニマル・ミュージックの要素を継承し、それをポピュラリティの範疇にあるポスト・ロックサウンドに仕上げている。特に、中盤のボーカルのコーラスの部分に、バンドとしてのユニークさ、演奏における楽しみを感じることが出来る。こういった温和な雰囲気に充ちたサウンドは前作には見られなかったものである。あらためてバンドが良い方向に向けて歩みを進めていることが分かる。

 

アルバムの収録曲のなかで、最も心を惹かれるのが、洪申豪がゲスト参加した「Ocean In The Night」のオーケストラバージョンだ。この曲は再録により旧来の楽曲が新しく生まれ変わっている。エモに近いギターラインにマリンバの音を掛け合せて、そこにモダンジャズの雰囲気を添え、精妙なサウンドを生み出している。中国語のボーカルも良い雰囲気を生み出し、曲の途中では、このアルバムで最も白熱した瞬間が到来する。このバンドの最大の長所である素朴さと情熱を活かしつつ、最終的にローファイな感じのあるロックサウンドという形に昇華される。

 

アルバムのクローズ曲については割愛するが、「Happy Prince」でも新しいサウンドに挑戦しており、KT Changの歌手としての弛まぬ前進が示される。Don Cabarelloのサウンドに比する分厚いベースラインとチャンの涼やかでポップなボーカルが絶妙な合致を果たしている。バンドが今後どのようなサウンドを理想としているのかまでは分からない。けれども、大象体操はいつも新しいことに挑戦するバンドでもある。無論、そのチャレンジを今後も続けてほしいと思います。

 

 

80/100 

 

 

Best Track 「Ocean In The Night」(feat. 洪申豪) -Orchestra Version

 

 

 

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Yumi Zouma 『EP Ⅳ』

 

Label: Yumi Zouma

Release: 2023/12/6



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オセアニア圏は、インディーポップバンドの宝庫であり、もし、未知の傑出したポップバンドを探したい場合は、オーストラリア、ニュージーランド、もしくはヨーロッパをくまなく探すしかない。

 

Yumi Zoumaもまたニュージーランド/クライストチャーチの四人組グループで、男女混合編成らしいバランスの取れたオルトポップサウンドを作り出すことで知られる。通算9枚目となるミニアルバム『EP IV』は驚くべきことに、日本の目黒区の祐天寺にあるスタジオで録音されたという。

 

本作はスタジオ・メックでクロエ・プーがエンジニアを務めた。ミックスはケニー・ギルモア(Weyes Blood、Julia Holter、Chris Cohen)、ジェイク・アロン (Grizzly Bear, Snail Mail, Solange)、Simon Gooding (Fazerdaze, Dua Lipa)。マスタリングはアントワーヌ・シャベイユ(Daft Punk、Charlotte Gainsbourg、Christine & The Queens)が担当したとのこと。

 

本作はオリジナル曲に加え、リミックスとインストバージョンが併録されている。2022年の最新アルバム『Present Tense』の延長線上にあるYumi Zoumaらしいサウンドが満載で、ドリーム・ポップ、ベッドルームポップ、シンセポップを基軸に、セッションに重点を置いたインディーポップサウンドが繰り広げられる。いわば遠心力により、ぶんぶん外側に振っていくようなユニークなサウンドが彼らの醍醐味である。さらにユミ・ゾウマのサウンドは、クリスティー・シンプソンのボーカル、クランチさとフェーザーの淡いギターサウンド、それらのメロディーラインを尊重したシンプルなビートを持つ軽妙なドラム、シックなベースラインを中心に構成される。

 

オープニングを飾る「KPR」は、Yumi Zoumaらしいサウンドで、旧来のファンを安堵させる。甘口のメロディーと軽快なインディーロックサウンドが展開される。シンプソンのボーカルはドリーム・ポップの夢想的なメロディー性を付加している。内省的なサウンドがあったかと思えば、それとは対象的なアンセミックなボーカルラインを交え、そしてスポークンワードにも挑戦している。

 

続く「be okay」は外交的なサウンドの雰囲気を持つオープニングとは対象的に、バンドやフロントパーソンの内省的な気質を反映した涼やかなポップ・バラードとなっている。ポピュラー性を重視したクリスティ・シンプソンのボーカルに、ドリーム・ポップの影響を絡めたギターラインが叙情性を付加している。特に、ギターラインとボーカルラインの兼ね合いが絶妙で、その合間にスネア/バスとタンバリンのような金物(パーカッション)の音響を生かしたシンプルかつタイトなドラムが心地よいビートを刻む。ライブセッションの心地よさを追求したともとれ、実際にそのコンセプトはコンフォタブルなインディーポップサウンドを生み出している。

 

「Kicking Up Daisies」はシンセ・ピアノを基調にしたインディーロックサンドに挑戦した一曲。Yumi Zoumaの代名詞の軽やかなインディーポップサウンドではあるものの、その中には奇妙な熱狂性とファイティングスピリットが感じられる。これらはバンドの内省的なオルトポップ・サウンドに、ロック的なウェイブを付加している。もうひとつ、アップビートな曲調と、それとは正反対のサイレンスを生かした曲調がたえず入れ替わりながら、メリハリの効いた流動的なバンドサウンドが繰り広げられる。前の2曲に比べると、シンプソンのボーカルにはかすかなペーソスが漂い、時に、それがバンドサウンドから奇妙な質感を持って立ち上がる瞬間がある。しかし、曲そのものがヘヴィネスに傾いたかと思われた瞬間、バンドはすぐさまそこから踵を返し、やはりバンドらしい軽妙で親しみやすい甘口のインディーポップサウンドへ立ち返る。どのような音楽性の種類を選ぼうとも、Yumi Zoumaの中核となるサウンドに変更はないのだ。


アルバムの冒頭は、お馴染みのインディーポップ・サウンドが提示される。続いて、「Desert Mine」は表向きの印象こそ変わらないものの、ジョニ・ミッチェルのようなコンテンポラリーなフォークサウンドを吸収し、現代的なポップサウンドの中にクラシカルな色合いを漂わせている。特に部分的に導入されるアコースティックギターはビート的な効果はもちろん、懐古的な気分を呼び起こす。それらがバンドの根幹となるサウンドとシンプソンの軽やかなボーカルと合致を果たし、独特な雰囲気を生み出す。後腐れのない爽やかなサウンドで、曲を聞いた後、驚くほど余韻が残らない。上質な日本料理のように「後味を残さない」ことが、本曲の醍醐味だ。そして曲にはライブセッションの楽しみや遊び心もある。バンドサウンドを緊張させず、緩やかなサウンドをバンド全体で組み立てようとしている。もちろん、バンドの代名詞であるエモーショナルな空気感も曲全体を通じて還流しており、くつろいだ感覚にひたされている。

 

他の収録曲に関しては、リミックス、インストであるため、残念ながら詳述を控えたい。しかし、ミックスやインストバージョンについては、数合わせや隙間を埋めるために録音されたものではないことは、耳の聡いリスナーの方であれば気づくはず。バンドは、原曲をもとにし、Yumi Zoumaの新しい音楽性を探求している最中なのかもしれず、彼らの未知の可能性はそれらのリミックスやインストに断片的に現れることがある。アートワークの予めのイメージを裏切られる作品である。ニュージーランドは、今まさに夏真っ盛りを迎えつつある。そして、彼らの音楽の気風は北半球に暮らすリスナーに、ほのかな太陽の明るさと爽快さをもたらすに違いない!?



82/100

 


Best Track 「KPR」

 

 

Label: Peter Gabriel Ltd.

Release: 2023/12/1



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満月の日に合わせて、『i/o』の先行シングルを順次公開していたピーター・ガブリエル。まだアルバム発売前には、アルバム・ジャケットの印象も相まって、ダークな作品をイメージしていたが、実際の音楽は、必ずしもそうとばかりは言いきれない。 アルバムの収録曲の中には、母親の死を取り扱った曲も収録されているというが、全体的には、潤沢な経験を持つ音楽家として聞きやすいポピュラーアルバムとなっている。アルバムは二枚組で構成され、一方はブライト・サイド、もう一方は、ダークサイドのミックスを収録している。いわば、先行シングルの予告については、月の満ち欠けを表そうという制作のコンセプトが込められていたことが分かる。

 

アルバムには、先行シングルでの制作者のコメントを見ても分かる通りで、どうやら世界情勢や平和についての考えも取り入れられているようである。それをガブリエル自身は、許すことの重要性を表明しようとしている。他にも、現代の監視社会への提言も含まれているという気がしてならない。例えばオープナー「Panopticon」は、フランスの思想家であるミシェル・フーコーが提唱した中央集権的な監獄の概念を「パノプティコン」と呼び、彼の著作の中でこの考えを問題視したが、それはガブリエルにとっては現代社会が乗り越えるべき問題であるのかもれない。

 

こう考えると、難解なアルバムのように思えるかもしれない。しかし、実際は、聞きやすさと円熟味を兼ね備えた深みのあるポピュラーアルバムである。ピーター・ガブリエルは何度もスタジオでサウンドチェックを入念に行い、現代の商業音楽がどうあるべきか、そういった模範を示そうとしたのかもしれない。オープニング「Panopticon」はイントロこそ鈍重な感じの立ち上がりだが、意外にも、その後、ソフト・ロックやAOR寄りの軽快な曲風に様変わりするのが興味深い。こういった作風に関してはDon Henlyあたりの音楽性を思わせて懐かしさがある。そういったノスタルジックな音楽を展開させながら、最近のシンセ・ポップやスポークンワードのような要素を取り入れたり、苦心しているのが分かる。ガブリエルのスポークンワード風のボーカルはかなり新鮮で、シリアスなイメージとは別のユニークな印象が立ち上る瞬間がある。

 

その他にも安心感のあるソングライターの実力が「Playing For Time」にうかがえる。ピアノやストリングス、ベースを中心とするバラードのような楽曲で、音のクリアさに関しては澄明ともいうべき水準に達している。これはソングライター/プロデュースの双方で潤沢な経験を持つガブリエルさんの実力が現れたと言える。曲の立ち上がりは、R&B/ブルースの雰囲気のあるエリック・クラプトンが書くような渋いバラードのように思えるが、後半にハイライトとも称すべき瞬間が現れる。この曲では予めのダークなイメージが覆され、それと立ち代わりに清涼な音楽のイメージが立ち現れる。渋さのあるバラードから曲は少しロック寄りに移行し、最終的には、ビリー・ジョエルのような黄金期のポピュラー・ソングに変化していく。

 

一方、タイトル曲「i/o」は、ガブリエルがピアノを背後に感情たっぷりに歌う良曲である。しかし、この曲がそれほどしんみりとしないのは、やはりオープニングと同様に、AOR/ソフト・ロックへの親和性があり、静かな印象のある立ち上がりから軽快なポップアンセムに変貌する構成に理由がある。曲は、その後、フィル・コリンズの音楽性を彷彿とさせる軽妙なロックソングへと変遷し、渋さのあるガブリエルのボーカルと、サビにおける跳ね上がるような感覚を組み合わせ、メリハリのある曲展開を構築する。作曲や構成の隅々に至るまで、細やかな配慮がなされているため、こういった緻密なポップソングが生み出される契機となったのかもしれない。


「Four KInd of Horses」では、現代のシンセポップの音楽性の中で、ガブリエルは自分自身のボーカルがどのように活きるのかというような試作を行っている。最近のイギリスのポピュラー音楽を踏襲し、それをMTVの時代のシンセ・ポップと掛け合せたかのような一曲である。この試みが成功したかは別として、この曲にはピーター・ガブリエルの野心がはっきりと表れ出ている。

 

 

このアルバムの音楽の中にはユニーク性というべきか、あまりシリアスになりすぎないで、その直前で留めておくというような制作者の思いが込められているような気がする。それはユニークな観点がそれが束の間であるとしても心の平穏をもたらすことを彼は知っているからであるのだ。「Road To Joy」は、ザ・スミスの名曲「How Soon Is Now?」のオマージュだと思うが、ここに、何らかの音楽の本来の面白さやユニークさがある。そして、その後、スミスの曲と思えた曲が、レトロなテクノに移行していく点に、この曲のいちばんの醍醐味がある。ループ構造を持つ展開をどのように変化させていくのか、制作のプロセスの全容が示されていると思う。


そのあと、再び神妙な雰囲気のある「So Much」へ移行していく。この曲では序盤のボーカルとは異なり、清涼感のあるガブリエルのボーカルが印象的。それはもっと言えば、よりソフトで親しみやすい音楽とは何かというテーマをとことん突き詰めていった結果でもあるのかもしれない。実際のところ、それほど派手な起伏が設けられているわけではないけれども、ガブリエルのハミングとボーカルの双方の歌唱と憂いのあるピアノが上手く合致を果たし、美麗な瞬間を作り出している。これはポップスのバラードの理想形をアーティストが示した瞬間でもある。

 

アルバムはミックス面でのブライトサイド/ダークサイドという重要なコンセプトに加えて、曲の収録順に関しても、明るい感覚と暗い感覚が交互に立ち現れるような摩訶不思議な感覚がある。そして、全体の収録曲を通じて流れのようなものが構築されている。例えば、「Oliver Tree」は映画のサウンドトラックを思わせるような軽快な曲として楽しめるだろうし、続く「Love Can Heal」では80年代のポピュラーミュージックにあったようなダークな曲調へと転じている。その後、「This Is Home」では、再び現代的なシンセポップの音楽性へと移行し、「And Still」では、母親の死が歌われており、アーティストはそれを温かな想いで包み込もうとしている。クローズ曲でも才気煥発な音楽性を発揮し、「Live and Let Live」では前の曲とは異なるアグレッシブなポップスへ転じ、より明るい方へと進んでいこうとしていることが分かる。

 

ダークサイドのミックスバージョンに関しては今回のレビューでは割愛させていただきたいが、これらの12曲には、音楽を誰よりも愛するアーティストの深い知見と見識が示されている。そして、人生における明部と暗部という二つのコントラストを交えつつ、光が当てられる部分と、それと対比をなす光の当たらない部分をアーティストが持ちうる音楽のスタイルで表現している。今作は、著名なプログレッシブロックバンドのボーカリストとしてのキャリアを持つピーター・ガブリエルの意外な魅力に触れるまたとないチャンスともなりえるかもしれない。

 

 

74/100 

 

 CLARK 『Cave Dog』

 

Label: Throttle Records

Release: 2023/12/1

 

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90年代からテクノシーンを牽引してきたCLARKによる『Sus Dog』に続く最新アルバムが到着。最近、トム・ヨークにボーカル指導を仰いでいるというクラーク。前作では珍しくボーカルにも挑戦。ベテラン・テクノプロデューサーによる飽くなき挑戦はまだまだ終わる気配がない。


正直、前作『Sus Dog』は、制作者のプランが完全に形になったとは言い難かったが、『Cave Dog』はプロデューサーの構想が徐々ではあるが明瞭に見えてくるようになった。テクノ/テックハウスのスタイルとしては、クラーク作品の原点回帰の意義があり、その作風は最近リイシューを行った「Boddy Riddle」に近い。さらに着目すべきは、アルバムのオープナー「Vardo」を見ると分かるように、90年代の活動当初のテクノ/ハウスの熱狂性を取り戻していることに尽きる。


シンプルな4ビートのテックハウスを下地に、ブレイクを挟み、レトロなテクノの音色を駆使することにより、堅固なグルーブをもたらしている。テック・ハウスは、極論を言えば、John Tejadaの最新アルバム『Resound』を聴くと分かる通り、強いビート感でリードし、オーディオ・リスナーやフロアの観客の体を揺らせるまで辿り着くかが良作と駄作を分ける重要なポイントとなりえる。


特に今作『Cave Dog』のオープニングを飾る「Vardo」では、従来のクラークの複数作品よりもはるかに強いキックが出ており、そこに新たに複数のボーカルが加わることで、ユーロビートのような乗りやすさ、つまりコアなグルーブを付与している。アウトロの静謐なピアノも余韻十分で、「Playground In a Lake」でのモダン・クラシカルへの挑戦が次の展開に繋がったとも解せる。 

 

 

「Vardo」

 

 

今一つ着目すべき点は、クラークがシンセサイザーの音色の聴覚的なユニークさをトラックの中に音階的に組み込んでいること。二曲目「Silver Pet Crank」では、ミニマル・テクノの中に音階構造をもたらし、その中にトム・ヨークのボーカル・トラックを組み込んでいる。わけても興味を惹かれるのは、ヨークのメインプロジェクト、The Smile、Radioheadでは、彼の声はどうしてもシリアスに聞こえてしまうが、CLARKの作品の中に組み込まれると、意外にもユニークな印象に変化する。これは旧来のトム・ヨークのファンにとって「目から鱗」とも称すべき現象だ。

 

この曲は展開の発想力も素晴らしくて、いわゆる「音の抜き差し」を駆使し、変幻自在に独自のテックハウスの作風を確立している。ビートは一定に続いているが、強迫と弱拍の変化(ずらし方)に重点が置かれており、曲を飽きさせないように工夫が凝らされている。さらにもうひとつ画期的な点を挙げると、ブラジル音楽のサンバに見られるワールドミュージックのリズムの影響を取り入れようとしている。これはプロデューサーのしたたかなチャレンジ精神が伺える。

 

三曲目「Medicine Doves」では、2000年代にApparat(ドイツのSasha Ring)が好んで使用していた、ピアノとシンセサイザーを組み合わせた音色を使用し、デトロイトの原始的なハウス・ミュージックと00年代のジャーマン・テクノを掛け合せている。そこにボーカロイドのような人工的なボーカルをスタイリッシュに配することで、クールで新鮮味のある曲に仕上げている。 


しかし、リバイバルに近い意義が込められているとはいえ、ベースラインの強固さについては独創的なテックハウスと呼べる。軽いシンセの音色とヘヴィーなビートが対比的な構造を形成している。特に前曲と同様、音の抜き差しに工夫が凝らされ、熱狂的な展開の後に突如立ち現れる和風のピアノの旋律による侘び寂びに近い感覚、そして、その後に続く、抽象的なダウンテンポに近い独創的な展開については「圧巻!」としか言いようがない。特に、ミニマルなフレーズを組み合わせながら大掛かりな音響性を綿密に作り上げていく曲のクライマックスに注目したい。

 

「Domes of Pearl」については、レトロな音色を使用し、エレクトロニックのビートの未知の魅力に焦点を当てようとしている。テック・ハウスをベースにして、その上にチップ・チューンの影響を交え、ファミリー・コンピューターのゲーム音楽のようなユニークさを追求している。Aphex Twinが使用するような音色を駆使し、ベースラインのような変則的なビートを作り上げていく。この曲は「Ted」をレトロにした感じで、プロデューサーの遊び心が凝縮されている。


続く、「Doamz Ov Pirl」は、クラークの代名詞的なサウンド、アシッド・ハウスの作風をもとにして、そこにボーカル・トラックを加えることで、どのような音楽上のイノベーションがもたらせるかという試行錯誤でもある。実際、前作アルバム『Sus Dog』よりもボーカル曲として洗練されたような印象を受ける。前曲と同じように、別のジャンルの音楽からの影響があり、それはアシッド・ジャズからラップのドリルに至るまで、新奇なリズムを追求していることが分かる。ボーカルやコーラスの部分に関しては、ブラジル音楽からの影響があるように思える。これが奇妙な清涼感をもたらしている。何より聴いていると、気分が爽やかになる一曲だ。

  

「Dismised」も同じように、根底にある音楽はイタロ・ディスコのようなポピュラーなダンスミュージックであるように感じられるが、その中に民族音楽の要素を付加し、クラークの作品としては稀有な作風を構築している。ビートやリズムに関しては、ステレオタイプに属するとも言えるのに、構成の中にエスニックな音響性を付与することで、意外な作風に仕上げている。ボーカルに関しては、アフリカ音楽や儀式音楽に近い独特な雰囲気にあふれているが、これは現在のUKのポピュラー音楽に見受けられるように、ワールド・ミュージックとアーティストが得意とするダンスミュージックの要素を掛け合わせようという試みであるように感じられる。

 

「Reformed Bully」は、連曲のような感じで、多次元的とも言える複雑な構造性を交えたブレイクビーツに導かれるようにし、ポピュラー・ミュージックの範疇にあるボーカルが展開される。この曲でも、トム・ヨークらしき人物のボーカルが途中で登場するが、その声の印象はやはり、The Smileとは全然別人のようである。ここにも彼のユニークな人柄をうかがい知ることが出来る。

 

ここまでをアルバムの前半部としておくと、後半部の導入となる「Unladder」は、『Playground In A Lake』における映画音楽やモダン・クラシカルへの挑戦が次なる形になった瞬間と呼べるだろう。ピアノの演奏をモチーフにした「Unladder」は骨休みのような意味があり、重要なポイントを形成している。ピアノ曲という側面では、Aphex Twinの「April 15th」を彷彿とさせるが、この曲はエレクトロニックの範疇にあるというよりも、ポスト・クラシカルに属している。エレクトロニックの高揚感や多幸感とは対極にあるサイレンスの美しさを凝縮した曲である。制作者は、現行のポスト・クラシカルの曲と同様、ハンマーに深いリバーブを掛け、叙情的な空気感を生み出す。中盤からアウトロにかけての余韻については静かに耳を傾けたくなる。

 

続く、「Oblivious/Portal」に関しては、『Playground In A Lake』を制作しなければ作り得なかった形式と言える。オーケストラ・ストリングスをドローン音楽として処理し、前衛的な作風を確立している。壮大なハリウッド映画のようなシネマティックな音像はもちろん、作曲家としての傑出した才覚を窺い知れる曲である。アンビエント/ドローンという二つの音楽技法を通して、ベテラン・プロデューサーは音楽により、見事なサウンドスケープの変遷を描いている。中盤からクライマックスにかけての鋭い音像の変化がどのような結末を迎えるのかに注目したい。

 

「Pumpkin」では、 クラシカルの影響を元にして、それをミニマル・テクノとして置き換えている。シンセサイザーとピアノを組み合わせて、格調高い音楽を生み出している。曲の構造性の中にはバッハのインベンションからの影響を感じる人もいるかもしれないし、テリー・ライリーのモダンなミニマル・ミュージックの要素を見つける人もいるかもしれない。いずれにせよ、CLARKはシンセとピアノの融合により、ミクロコスモス的な世界観を生み出し、聞き手の集中を2分強の音の中に惹きつける。制作者の生み出す音楽的なベクトルは、外側に向かうのではなく、内側に進む。そのベクトルは極小な要素により構築されているにもかかわらず、驚くべきことに、極大なコスモス(宇宙)を内包させている。曲の終盤では、ピアノの柔らかい音色が癒やしの感覚をもたらす。こういった超大な作風は、Oneohtrix Pointneveの『Again』に近い。

 

アルバムの中盤に向かうと、序盤よりも神秘性や宇宙的な概念性が立ち現れる。「Meadow Alien」ではついに地球を離れ、宇宙に接近しはじめる。まさしくタイトルに見えるように、エイリアンとの邂逅を描いたものなのか……。はっきりとした事はわからないが、少なくともスペースシップの船内に浮遊するような得難い感覚をアンビバレントな電子音楽として構築している。そのサウンドスケープは、意外にもアンビエントという形をとり現れる。クラークはその中に映画音楽で使用されるマテリアルを配し、短い効果音のような演出的な音楽を作り上げている。

 

いよいよ、クラークはミクロコスモスともマクロコスモスともつかない電子音楽によるミステリアスな空間を「Alyosya Lying」で敷衍させ、近年、トム・ヨークの指導を仰ぎながら取り組んできたボーカル曲としての集大成を形作る。以後、アルバムの最終盤でも、ジャンルレスな音楽性が展開される。


例えば、近年のギリシャ/トルコをはじめとする世界の大規模な森林火災をモチーフを選んだとも解釈出来る「Disappeared Forest」では、電子音楽にソウル/ゴスペルのコーラスを組み合わせ、これまで誰も到達し得なかった前人未到の地点に到達する。クラークが今後どのような音楽を構築していくのか。尤もそれは誰にも分からないことだし、予測不可能でもある。アルバムの最後の曲「Secular Holding Pattern」では、Tim Heckerの音楽性をわずかに思わせる抽象的なアンビエント/ドローンの極北へと辿り着く。クローズ曲では、オーケストラで繰り広げられるドローン・ミュージックとは別軸にある電子音楽におけるこのジャンルの未来が示唆されている。

 

 

 

92/100